「で、いつになったら聞かせてくれんの」 不意に忍足が口にした言葉に、私の背中はぎくりと跳ねた。 「俺ずっと待ってんねんけど」 そう言う忍足の口調はいつものように軽いものだけれど、その言葉は私に重く圧し掛かってくる。 頬杖をついた忍足が俯いた私の顔を覗き込んでくる、その目もいつものように穏やかで優しい。 まるで設問の解答に窮した生徒を導く教師のようだ。 けれど、私はそれがなにより怖い。 「ごめん、もうちょっと、待って」 「俺かてこれでも結構モテるんやで?」 忍足は戯けたように言うけれど、彼の一言一言に私は追い詰められていく。 どうにかしてこの状況から逃げ出したくて放った言葉は、いちばん言ってはいけない言葉だった。 「だったら、他をあたればいいじゃない」 そう言ってしまった瞬間、彼の纏う温度が変わった気がした。 「本気で言ってんの?」 レンズの奥の瞳の色が、変わった。 あの時と同じ。 私はこの眼が怖いんだ。 「ごめん、私帰る」 居た堪れなくなってその場を去ろうとしたけれど、腕を引き寄せられてあっという間に抱きすくめられてしまった。 「忍足」 名前を呼んでも反応はない。 顔も見えない。 今、どんな目をしているのだろう。 「おし……っ」 もう一度、声を掛けようとしたときに唐突に訪れた感触。 首筋を這う温かく湿った感覚に背中が震えた。 「やだ、忍足」 「……」 「待っ……」 「もう十分待たされたわ」 耳元で響く低い声に足が震える。 私の声を聞いてくれない、痛いほどに掴まれた腕に、涙が出そうになる。 「」 私の首元に埋まった彼の頭部に気を取られていると、今度はブラウスの裾から冷たい空気と一緒に熱い温度が侵入して来た。 「嫌だってば!」 驚きと恐怖で、無我夢中で振りかざした腕は彼の顔を掠めたらしく、かしゃんと言う音を立てて眼鏡が床に落ちた。 長い前髪から覗く漆黒の瞳に射竦められて、身動きが取れない。 「……すまんかったな」 背を屈めて眼鏡を拾い上げた忍足は、そのまま私の方を振り返ることなく去って行ってしまった。 私はひとり部室に取り残されて、彼の出て行った方を茫然と見つめていた。 テニス部のレギュラー部員である忍足と、マネージャーである私。 お互い、これだけ仲の良い異性の友人はたぶんいないと思う。 いつも一緒にくだらないことを話して、しょうもないことでふざけて、それがとても居心地が良かった。 だから私はきっと、忍足のことを好きなんだと思っていた。 けれどあの日、忍足に告白された日。 嬉しいという気持ちよりも、怖いという気持ちが真っ先に生まれた。 私のことを好きだと言ったその眼は、ずっと一緒にいた今まで、一度も見たことのない眼だった。 いつもみたいにふざけたり、優しく笑っているのとは違う。 あまりにも真っすぐすぎる瞳。 目の前にいるのは、私の知らない男の子だった。 「うん」と返事をしてしまったら、私が好きだった忍足はいなくなってしまうんじゃないか。 私が居心地の良かった関係はなくなってしまうんじゃないか。 そう考えると怖くなった。 だから、逃げてしまったんだ。 「、侑士とケンカでもしたのか?」 部活中、向日に聞かれてしまった。 「ケンカはしてないと思うけど……やっぱり分かる?」 「そりゃ分かるだろ」 そう言った向日の視線の先には、私たちの輪から離れてフェンス越しに女の子たちと話す忍足の姿。 いつもは時間が空いたら真っ先に私の方に来てくれるのに。 あんな風に、ギャラリーの子たちに愛想振り撒いたりなんてしないのに。 こんな向日にも分かるくらい、あからさまに避けなくたっていいのに。 「ちょっと顔洗ってくる」 あんな光景見たくなくて、何か言いたげな向日にも応えるわけにもいかないし、その場から逃げるように水道場へ向かった。 逃げてばっかりだ。 今までの関係を壊したくなくて、忍足から逃げていた結果がこれだ。 それなのに、結局壊れてしまった。 私はどうすればよかったんだろう。 あのとき、頷いていれば良かったのだろうか。 冷たい水で頭を冷やせばさっぱりするかも、なんて思ったけれど、そう簡単に行くはずもなくて。 下手に冴えてしまった頭でぐるぐると考えながら歩いていると、間の悪いことにさっきの女の子たちが前からやって来た。 「勇気出して言ってみて良かったー!」 「今までどれだけ誘ってもダメだったのにね」 「私今日頑張っちゃおうかな!」 やけに晴れやかな彼女たちに反して、私のもやもやは増えていくばかりだ。 このもやもやはどうすれば晴れるのだろう。 ひとつだけ分かるのは、忍足があの子たちと一緒にいるのは嫌だ、ということ。 だったら、私はどうすればいい? 「お先に」 部活が終わった後もダラダラと部室から動こうとしない部員たちを横目に、忍足はいち早く帰り支度を終えていた。 「なんだよ侑士、メシ食っていかねーの」 「今日は先約があんねん。すまんな」 向日の問いにも短く答えると、忍足はそのまま出て行ってしまった。 あの日のように忍足を見送ることしか出来ない私の耳に入ってきた部員たちの会話。 「彼女でも出来たんじゃねーの」 「げーまじかよ」 そうしたら、さっきの子たちが頭にちらついて居てもたってもいられなくなってしまった。 「忍足!」 部室から飛び出して追いかけて行くと、忍足はまだひとりで歩いているところだった。 私の声に足を止めて振り向いてくれた忍足は、けれどいつものように笑い掛けてはくれない。 「……なに」 いつも、そんな風に呼ばないくせに。 歩み寄って黙って袖口を掴んだ私を受け入れることも、振り払うこともしない。 「俺約束あんねんけど」 「約束って……さっきの、子たち」 「ああ。俺に話があるんやって」 チクリと、胸に刺さる。 勢いよく出てきたはいいけれど、まだ言う言葉は見つかっていなくて。 俯いて忍足を掴んだまま黙り込んでいると、頭上から降ってきたのはため息。 「他あたれ言うたのはそっちやろ」 「……」 「あんなあ……その気もないのにこういうことされると困るんやけど」 「そ、その気があったら、いいの」 やっとのことで言うと、驚いたのか、忍足がやっとこちらを向いてくれた。 俯いたまま地面を見ることしか出来なくて、あの時みたいに、どんな顔をしているのかは分からないけれど。 「忍足が、他の女の子と仲良くするの嫌だ。真っ先に私のところに来てくれなくちゃ嫌。そ、それって、その気があるってことに、ならない?」 「それって、俺のこと好きってこと?」 「……好きじゃないわけ、ない」 私にとっては一世一代の大告白だったのに、そう言ったっきり返事がなくて。 やっぱり、今更だったかなって、すごく不安で。 恐る恐る顔をあげたら、びっくりしてしまった。 だって忍足ってば顔真っ赤にして、口押えてて。 いつもクールぶって飄々としているのに、こんな忍足見たことない。 「……ほんま?」 「え」 「俺のこと好きって」 「う、うん」 「じゃあ付き合ってくれるん?」 「…………うん」 そんなに何回も聞かれると流石に恥ずかしくなって、小さく頷いたら。 「よっしゃー!!」 今度はいきなり大きな声出すから顔赤くするタイミングだって逃してしまった。 「まじで、本当やな!?」 「う、うん」 忍足の勢いに圧倒されていたら抵抗する間もなく今度はぎゅうって抱きしめられてしまった。 「好きや。めっちゃ好きや」 耳元で囁いてくれた忍足の声は震えていて、やっぱり今の彼がどんな顔をしているのか見ることが出来なくてとてももどかしかったのだけれど。 でももう不安になることはないんだって、私も彼の背中に手を回した。 顔真っ赤にして照れたり、大声上げてはしゃいだり、震えるくらい喜んだり。 私の知らない忍足ばっかり。 私、なにをあんなに怖がっていたんだろう。 全部の忍足が、私のことをこんなに好きだって言ってくれているのに。 これからも私の知らない彼にたくさん出会えるなら、ああ、これでよかったんだって、やっと安心できた。 この人は私のことを本当に好きでいてくれているんだって、やっと素直に嬉しいって思うことが出来た。 「そしたら、これから家来へん?」 「え」 「この間の続きしよか」 ……でも、こんな忍足はまだ知りたくなかったかも。 091108 140312 |