thirst for*** 朝登校すると、下駄箱の前で靴を履き替えているの後姿が目に飛び込んできた。 今朝の夢にまで出て来たその姿が現実に現れ、不覚にも心臓が嫌な音を立て始めた。 振り返れ。 振り向くな。 相反する祈りが俺の中で疼きだす。 「あ、跡部くん。おはよう」 「よお」 一方の願いは叶えられ、一方の願いは散らされて。 俺の顔を認めると同時に顔を明るく綻ばせるに、舞い上がる気持ちと同時に胸を抉るような苦しみが生まれてくる。 「どうしたの?そんなところに突っ立って」 「……なんでもねえ」 「ふうん?」 下から覗き込まれてふいと顔を背ける俺に、首を傾げるような仕草をする。 こいつの何気ない行動のひとつひとつにこの俺の全神経が支配されている。 情けねえ……跡部景吾ともあろうものがよ。 俺が靴を履き替えて廊下に出ると、は下駄箱の横でにこにこしながら俺を待っていた。 そんなに、俺はまた心の中でとっとと行けよという悪態を吐きながらも、浮かれる気持ちを自覚せずにはいられねえ。 こいつといると矛盾した考えばかり生まれて来やがる。 俺を見ろ。 俺を見るな。 一緒にいたい。 俺に近づくな。 声が聞きたい。 話しかけるな。 「今日は遅いんだね」 「ああ。試合後で朝練がなかったからな」 「あっ聞いたよ。練習試合で圧勝だったって。すごいね」 「フン。当然だろうが」 「あはは。私も応援に行きたかったな。ごめんね、お家の用事があって……今度は絶対行くからね!」 「お前の応援ひとつあろうがなかろうが、何も変わりゃしねえよ」 「あっひどーい」 大丈夫だ。 普通に話せている。 の横で俺はちゃんと、ただの同級生の顔でいられている。 「あ、そう言えばね」 「っ」 不意に俺の腕を掴んだの手を、俺は咄嗟に振り払ってしまった。 しまったと隣を見ると、は伸ばした腕を中途半端に浮かせたまま驚いたように固まっていた。 「悪い、用があるから先に行く」 「あ、うん……じゃあね」 これ以上の顔を見ていることが出来なくて、背中にの視線を感じながら歩き出した。 くそっ何が「ただの同級生」だよ。 そう思っているのはの方だけで、俺は……。 「よお、跡部」 教室に入ると、待ち構えてたように同じクラスの向日が駆け寄ってきた。 「あのよ、俺今日ちょっと頼まれごとがあってさ。今日の部活早退していいか?」 「ああ?」 「げっな、なんだよ。朝っぱらからこえー顔してよ。仕方ねーだろ。母ちゃんに言われてんだからよ」 「フン。勝手にしやがれ」 「なんだよ。とケンカでもしたのかよ。八つ当たりすんなよな」 俺の虫の居所が悪いのを察してか、向日はぐちぐちと文句を言いながら自分の席へ戻って行った。 向日でさえとうの昔に気がついてるってのに……どうしてお前は分かんねえんだよ。 俺がお前のこと、毎日どれだけ考えてると思ってるんだよ。 もうとっくに、俺はお前のただの同級生なんかじゃいられねえんだよ……。 触れたい。 抱きしめたい。 を、抱きたい。 「あれっ跡部くん」 「っ……」 練習が終わりひとり部室に残って作業をしていると、控えめに扉を叩く音が聞こえて来た。 誰か忘れ物でもしたのかと思いドアを開けてやると、そこにいたのは俺を散々振り回して、俺をかき乱すこの女……。 「こんなところになんの用だよ」 「え、うん……。向日くん、知らない?」 「向日だと?あいつなら用があるとか言って早退したぜ」 「ええっそんな。一緒に映画観ようって約束してたのに……」 「……あいつと、そんな約束してたのかよ」 「うん。ちょっと恥ずかしいんだけど戦隊モノだからさ、お互い一緒に観る人がいなくて。だったら一緒に行こうかって」 「……そうかよ」 やっと出たのは、自分の声とは思えないほどに掠れた声。 苦しい。 息が出来ない。 眩暈がする。 目の前にいるはずのの姿が、霞んでよく見えない。 「跡部くん?どうしたの」 俺の異変に気づいたが、朝のように俺の腕を掴んで顔を覗き込んできた。 「跡部くん大丈夫?気持ち悪い?」 何も反応しない俺の顔を見ようと、が下からさらに顔を近づけて来た。 馬鹿な女。 今度は今朝のように、腕を振り払うようなことはしなかった。 その代わり掴まれたその腕を掴み返し、俺の方へと強く引き寄せた。 「跡部、くん……?」 の肩口に顔を埋める俺の耳元で、の戸惑う声が聞こえる。 お前が悪いんだぜ。 無神経なお前が。 俺を惑わすお前が。 俺の中でが小さく震えているなんて、気にしなけりゃいい。 お前の知っている「跡部くん」が、頭の中でお前をどんな姿にして、どんなことをしているのか………… 教えてやるよ。 初めてこの腕の中に閉じ込めたの体は想像していたよりもずっと柔らかく、描かれた曲線からは驚くほどに細く小さかった。 の体を部室内の机の上に静かに横たわらせた。 その上に覆いかぶさるようにして首元に口付けると、その体から俺を誘う甘い香りが漂ってくるかのような錯覚を覚える。 ネクタイを解きひとつずつブラウスのボタンを外していくと夢にまで見た白い肌が次第にベールを脱ぎ、息を呑まずにはいられなかった。 決して大きくはないそれは確かに男の俺にはない膨らみを帯びていて、とっくにに酔いしれちまっている俺を倒錯させるには十分だった。 泣いて抵抗されるかと思ったが、は拒絶の言葉も一言も発することなく、ただ黙って俺の動きを受け入れていた。 まさか、もう他の奴に……そんな焦燥感が一瞬頭を過ぎったが、俺の下で体を強張らせて小刻みに震えるの姿に自分勝手な安堵の気持ちと、わずかな罪悪感がまた同時に芽生えて来た。 今更、ここまで来て止められるかよ。 どうせもう元には戻れないし、戻る気もねえ……。 余計な考えを払うようにの胸元に顔を埋め、無我夢中でそこに吸い付いた。 穢れのない素肌に残されていく、俺が触れた証。 まるで幻の中にいるような恍惚を感じていた。 ずっと長い間求めていたものが今、目の前にある。 俺のものだ、全部。 他の誰かに渡してたまるか。 やっと手に入れることが出来るんだ。 「跡部くん」 俺を呼ぶ小さな声に動きを止めて視線を上にずらすと、が俺を見つめながらもう一度俺の名を呼んだ。 俺を見つめるその眼は不安に揺れ怯えた色を見せているってのに真っ直ぐとした強い光を湛えていて、俺はその眼に射竦められるようにして身動きが取れなくなっちまった。 そんな俺の方へは腕を伸ばし、そっと俺の頬へ手を添えた。 その手は可哀相になるくらいにひどく震えていたが、追い詰められた俺の心に安らぎを与えるような暖かい温もりを持っていた。 「跡部くんは、これでいいの……?」 掠れた弱い声で俺に問いかけるの声に、俺の頬に触れたまま微動だにしないその温かい手に、俺の神経の全てが注がれる。 「跡部くん、すごく辛そう。すごく悲しい顔してる……。跡部くんは、これで幸せになれるの?それなら、私……いい、よ……。でも、跡部くんが余計に苦しくなるのなら……。私、跡部くんにそんな思いして欲しくない。跡部くんには、いつも笑っていて欲しいよ……」 瞳に透明の雫を溜めながらも瞬きひとつせず、俺から目を逸らそうとしないの言葉に俺は頭を殴られたような感覚になった。 俺は一体、何をしているんだ。 好きな女にこんなことを言わせて。 は真っ直ぐ俺のことを見てくれているってのに、俺はの何を見ていたんだ。 こんな風に無理やりを抱いたって、何も手に入るはずがないじゃねえか。 俺が望んでいたものは、こんなことで手に入るほど安いもんじゃねえ。 俺はの体を起こしてやると、乱れた制服を整えてやった。 ブラウスのボタンをひとつひとつ留めていってやると、は小さく「ありがとう」なんて呟いた。 「悪い……恐い思いさせちまった」 「ううん……大丈夫だから」 「あんなに震えてた奴が、無理するんじゃねえよ」 「確かにちょっと、恐かったけど……でも、嫌じゃ、なかったから……」 ボタンを留める手を止めての方を見れば、はやはり俺の目をじっと見つめていた。 俺が今まで出来なかったこと、拒んでいたことをこいつは難なくやってのけちまう。 俺を見るなだなんて言ったところで、実際はに俺だけを見て欲しいと願っていることなんて、この俺自身に隠し通せるはずがなかったんだ。 「私、雰囲気に流されてあんなこと言ったんじゃないよ?ましてや、誰でもいいわけじゃ……。跡部くんだから。好きな人になら、きっと何されても嫌じゃないから……」 そう言って顔を真っ赤にしながら眼を逸らすに、また押し倒しちまいたい衝動に駆られたが…… 今度はどうにか抑えることが出来た。 ただ、気がつくとの両肩をきつく掴んでいた。 「」 「え、跡部く……んっ…………」 初めて触れ合うことの出来た唇を名残惜しむように離し、額をくっつけたまま鼻の先がぶつかるほどの距離での顔を見てやると、は俺と目を合わすまいとするように視線を泳がせていやがる。 ついさっきまでは俺から一瞬も目を逸らさなかったくせに、いざと言うときにこんな風に恥ずかしがるこいつの姿に言いようのない愛おしさが溢れ出てくる。 「。好きだぜ」 「私も……跡部くんのこと」 「もっと早く言っておけばよかったんだな、こんな風に。もっと最初っから素直になっていれば」 「大丈夫だよ。これから、いっぱい言うから。跡部くんに好きって……」 「フッかわいいこと言ってくれるじゃねえの……」 そうして俺達は何度も何度もキスをした。 今まで触れ合えなかった分を、埋め尽くすように。 本当はもっと先までに触れて、こいつの中を俺で埋め尽くしてやりたいくらいだったが……こいつの気持ちは分かったんだ。 も俺と同じ気持ちでいるってこと。 それなら、今焦る必要はねえだろう? 「すっかり遅くなっちまったな。悪かった。送って行ってやるよ」 「あ、うん」 「ほら」 「え、あ……」 俺が差し出した手を戸惑いながら見つめるに、思わず自嘲するような笑みが零れる。 「どうした。まだ、恐いか」 「あ、ううん……大丈夫」 俺の手に恐る恐る重ねるようにして乗せられたの手はもうさっきのように震えてはいなかったが、その温度はさっきよりもさらに熱を増していた。 「跡部くんと一緒なら、平気だから」 頬を染めてはにかんで言うの小さな手を、強く力を込めて握り締めた。 あの時眩暈の中で感じたような、幻なんかじゃねえ。 俺が心の底から望んでいたものが、今確かにこの手の中にある気がした。 070406 |