その罠にかかれば、二度と逃げることは出来ない。
どんなにもがいても抜け出すことは叶わなくて、絡め取られた羽はいつかもぎ取られてしまう。
分かってるのに、どうしても触れたくて。
自ら飛び込まずにはいられないんだ。
きらきら光る銀色に。









蜘蛛の罠










「どういうことよ」


名目上は「彼氏」である仁王を前にして、胸につかえた黒いものを吐き出すよう声を絞り出した。
世の中の恋する乙女が絶対に愛しい恋人になんて浴びせやしないような、低く地に這うような声。


「どうって……浮気?」


ニヤニヤとした笑いを貼りつかせてさらりと言ってのけるこいつを殴り飛ばしてやりたい。
こいつの腕にぶら下がってバカみたいな笑い声を上げている女も。
けれどいちばん殴ってやりたいのは、震えるばかりの唇から罵る言葉さえ吐き出すことの出来ない
意気地のない私自身。
なにがおかしいのさ。
なにもおもしろいことなんてないわ。
あまりにも図々しいこいつらの態度に、私の口は自分でも笑えてくるほどに引き攣っていて。
けれど私に出来るのは、しれっとした顔をした目の前の男を瞬きひとつせずに必死に睨みつけてやることくらい。


「まあまあ、そう怖い顔しなさんなって」


女がしがみついていない方の手を伸ばして来た仁王が触れる前に、その手を叩き落としてやった。
それでも薄ら笑いを浮かべたままの仁王をもうひと睨みして、震える足を踏み出して踵を返した。


「なんじゃ、今日は俺んとこ来んのか」
「行くかっ!バーーーカ!!」


的外れなことを言う仁王を肩越しに振り返って捨て台詞を吐けば、背中に降りかかる声は私を引き止める声ではなくて「やだーこわーい」なんて鼻にかかった女の声。
うっさいっ嫌なのはこっちの方じゃ。
もう嫌。
もう、嫌だよ……。
いっつも追いかけるのは私ばっかりで。
飄々とした仁王のことを捕まえることなんて出来ないんだ。
追いかけるだけの恋なんて、片想いのときとなにも変わらない。
ただ想って見つめているだけでよかった。
裏切られて失望して、惨めな思いをしないだけあのときのほうがましだったよ。
大体なんなのよ、あの頭の悪そうな女は。
私が逆立ちしたってどうやっても敵わないような素敵な女の子ならまだ諦めもつくけど、あんな、ちょっと顔が良くてちょっとスタイルが良くてちょっと胸が大きくて……ううう。
仁王は、私じゃなくてもいいんでしょ。
だったら私だって、そんな恋はいらない。
こんな思いをするだけの恋なら……いらないよ。


「泣いてるんすか?」
「泣いてないし」
「そんな顔で言われても、説得力ないっすよ」
「あーもうー!髪の毛ぐしゃぐしゃにしないでよー!」
「なんすかー。慰めてあげてるんじゃないすか」


もう、なんでこの後輩はこうバッドタイミングで現れるかな。
口調はいつもみたいにおちゃらけて軽いのに、頭を撫でてくれる手は優しくて大きいなんてさ。
余計に泣けてくるよ。


「また仁王先輩に泣かされたんすか」
「だから泣いてないって」
「まあ、あの人も面食いっすからねー」
「あんた私のこと慰めてるの。けなしてるの」
「慰めてるって言ってるじゃないすか。好きな人が泣いてるの、放っておけるわけないじゃないすか」
「……」
「……そんな、あからさまに困った顔しないでくださいよ」
「だって、困るもん」
「だーから、そんなハッキリ言われるとこっちも傷付くんですってば」
「ごめん……」


俯いた私の頭から温かい手が離れたかと思うと、今度は全身に伝わる温もり。
いくらなんでもマズイって離れようとするんだけれど、やっぱり1コ下とは言え相手は男の子なわけで、敵うはずもなくて。
仕方なく大人しくしてみれば、この腕の中で包まれているのもすごく落ち着くってことに気づいてしまったんだ。
ただの後輩って思ってたのに、腕の逞しさも鍛えた胸も、あいつと変わらないって。


「俺だったら、先輩にこんな顔させないのに……とかって、クサイっすかね」
「クサいよ。ガラじゃないよ」
「ヒドイっすね。人がせっかく口説いてるってのに」
「口説いてって……」
「けど、本当っすよ。俺だったら先輩が傷付くようなこと、平気で目の前でしたりしないっすよ。先輩のこと、誰よりも大切にする自信だってあります」
「あか、や……」


あいつが私じゃなくていいんなら、私だってあいつじゃなくていい。
目の前に私のことをこんなにも想ってくれている男の子がいるんだから。
仕方ないじゃん。
もうあんな思いをするのは嫌だもん。
この手に縋ったって、もう、いいよね……。


「楽しそうじゃの」


恐る恐る目の前の背中に自分の腕を回そうとすると、背後から降ってきた声。
振り返る前に肩を掴まれて引っぺがされるように後ろに引き寄せられて。


「仁王先輩何なんすか。いいとこなんすから邪魔しないでくださいよ」
「すまんの赤也。こいつは俺のもんじゃから勝手なことされると困るんじゃ」


腕を首に回されて上を見ることも出来ないけれど、「俺のもの」なんてぬけぬけと言ってくれる仁王はどうせまたニヤニヤと薄ら笑いを浮かべているに決まっている。


「だったらどうして先輩を悲しませるようなことばっかりするんすか」
「お前さんには関係のないこと。俺とのことに首を突っ込んじゃなか。夫婦喧嘩は犬も食わん言うじゃろ」
「関係あるっすよ。俺、先輩のことが好きなんです。だから先輩が泣いてるの放っておいたりなんか出来ません」
「ほう……お前さんも随分と物好きよのう。しかし残念。こいつが好きなんは俺だけぜよ」


よくもこう、口からぺらぺらと出てくるものだ。
人のことを放って好き勝手言われて、流石に頭に血が上って口を開こうとすれば、それよりも早く仁王が私の腕を取ると無理矢理引っ張り出すようにして歩き出してしまう。


「ちょっ……痛いっ離してよっ」
「黙ってついて来んしゃい」


私の方なんて見ないまま前を行く仁王の有無を言わさない口調に抗議の声も飲み込んでしまう。
後ろを振り返れば、こっちを睨むように見つめる赤也が小さくなっていく。
口の中で小さくごめんって呟くと、私の腕を掴む前の男の力がさらに強くなって。
私はただ目の前で揺れる銀色を見上げながら、足が縺れないよう必死になるしかなかった。


「もっ……な、んなのよ」
「俺はやめて、赤也にするんか?」
「はあ?」
「俺のこと飽きたんか。は俺じゃなくてもいいんか」
「なに、なに言ってるのよ……。私じゃなくていいのは、あんたの方でしょ。始めから、私なんて要らなかったんでしょ」
「なんでじゃ。俺にはしかおらんのに」
「は……」


はは、なにそれ。じゃあ、さっきのはなんなのよ。さっきだけじゃない、今までだってずっとずっとずっと!
あれはなんだったの。一体なんだって言うのよ!!


頭の中で渦巻く言葉が、ちゃんとした声になって紡げていたのかすら分からない。
ただ意味の成さない音を喚いていただけかもしれない。
わけが分からなくて、混乱して、悔しくて、哀しくて、腹立たしくて、嬉しかったから。


、好いとうよ。

好きじゃ。

俺が欲しいのはだけじゃ。

他なんていらん。

だけおればよか。


腕の中に私を閉じ込めて、惑わすように軽い言葉を奏でる。
仁王はきっと今……もう、どうでもいいか。
いつかこの身が滅びて、二度と飛び立つことが出来なくなっても。
銀色に目が眩んで、何も見えなくなったとしても。
この甘い罠の中で一時の夢が見られれば、それでいい。










071115