彼を形容するのは「冷たい」という言葉。 冷たい瞳に冷たい言葉、冷たい態度。 触れた手も唇も、舌さえも。 私の心も想いも、熱まで奪いつくすかのよう。 それはまるで体温の持たない蛇のようだ。 蛇の舌 「やっ……やだっ」 必死に力を込めると、小さい呻きと共に目の前の男の体が僅かに動く。 その隙に私を押さえつけるその体から逃れようとするけれど、情けないことに腰の抜けてしまった私はその場にへたり込んでしまった。 口の中で、苦い鉄の味がする。 「やってくれるじゃねえの」 どこか笑いを含んだような声に思わず見上げれば、舌なめずりする跡部の唇が紅を引いたかのように、朱に染まる。 やけに艶っぽいその姿に視線を逸らせない。 いつもそう。 私は跡部のことを全身で拒絶しながら、強烈に求めている。 そんな私を見ると、跡部は蔑むように哂うんだ。 「腰が砕ける程よかったのか?なんなら続きもやってやろうか」 「うっ……」 目の前にしゃがみ込んだ跡部にネクタイを掴まれ彼の息がかかるほどに目前まで引き寄せられる。 絞まる首元に顔を歪ませれば、滲んだ視界の隙間から心底楽しそうに哂う跡部が映る。 息が出来ずにもがく私をまるで水面に浮かぶ虫けらでも見るかのように。 そして玩具に飽きた子供のように、突然掴んだ手を離して私を突き飛ばす。 「俺とこうしたかったんだろ?よかったな」 「はっ……はぁっ……さ、いてい……」 「ハッそりゃ光栄だな」 酸素を取り込みながら掠れた声を投げつけても、跡部は眉ひとつ動かさず、笑みを崩さない。 私が受けた傷のほんの欠片だって、この人に与え返すことなんて私には出来ない。 「あ、んた、なんて……」 「アーン?なんだよ」 「あんたなんて、嫌い」 「ああそうかよ」 「そう、よ。あんたなんて、大嫌い」 「フッそりゃどうも。けど、俺には大好きって言ってるように聞こえるぜ」 全身がカッと熱くなる。 それは怒りからか、羞恥からか。 この人は人のプライドを平気で踏みにじって、人の弱みを徹底的に攻めるような人間なんだ。 「嫌いよっ!あんたなんて大っ嫌い!!」 あの凍てつくような笑顔から逃れて、壁にもたれるようにしてそのままずるりとしゃがみ込んだ。 膝を抱えて蹲れば、眼から熱いものが流れ出てくる。 けれど、冷え切った私の心は温度を取り戻すことが出来ない。 跡部とこういうことをすることを、夢見ていなかったわけではない。 けれど、こんなの違う。 どんなに物理的に近づいたとしても、その分どこまでも心は突き放される。 触れれば触れるほど、私の体は刃物に触れて血が流れ出ていくようにして体温を失っていく。 想いが伝わらないだけならまだマシ。 あの人はそれを、哂いながら私の目の前でずたぼろに引き裂いてくれる。 どうしてこんな仕打ちをされてまで、まだ追いかけようとするのか。 どうしてまだ好き、だなんて思えるのか。 自分でも分からない。 きっとこれはもう、好きなんて、綺麗でかわいい感情じゃない。 ただの執着。 自分勝手な、被害妄想。 馬鹿みたい。けれど、止められないの。 この想いも、涙も。 そんな冷え切った私の体を温めてくれる、穏やかな空気。 そっと私の横に寄り添うようにして座って、掻き乱された髪を整えるように、そっと撫でてくれる。 顔を上げれば、そのレンズ越しの眼はいつだって優しくそして哀しそうに、私を見守ってくれているの。 落ち着いたか? 大丈夫や。 俺がおるから。 どうして私なの? 私なんて、あなたに傍にいてもらう資格も権利もないのに。 その優しい眼に、温かい手に、縋ることなんて出来ないのに。 「また跡部か」 「っ……」 「さんはほんま、跡部のことばっかりやもんなあ」 呆れたように哀しそうに、小さく笑う彼の言葉に肩が震える。 全て見透かされて。 本当に馬鹿みたいだ。 ふっと、彼の指が私の涙を拭うように目元に触れる。 頭に回された、手。 「俺も同じや」 彼も私と同じように、震えている。 「俺も頭ん中、さんのことでいっぱいなんや」 そうしてまた、そっと笑う。 辛そうに笑う、なんて笑い方があるなんて、この人に会うまで知らなかった。 「もう辛いだけの恋なんて止めて、俺にしとき。そんで俺のこと、幸せにしてや」 同じ「わらう」という行為なのに、与えられるものがこんなにも違うなんて。 他人を顧みず人を傷つけることを躊躇わないあの人と、他人を守るために自分を傷つけてしまうこの人。 どちらを選べば救われるかなんて、考える必要すらない。 「」 突然呼ばれた名前に驚いて振り向けば、いつの間にか傍にいるのが当たり前になっていた、彼の姿。 私を見れば優しく目を細めてくれるけれど、やっぱりその顔は哀しそう。 「なんや、けったいな顔やなあ。可愛い顔が台無しや」 「もう!いちいち恥ずかしいこと言わないでよ。だって、急に……」 「ええやろ?付き合うてるんやから、名前で呼ぶのは普通やん」 「そっか、そ、だね」 「な、」 「うん。ゆ、し……」 なんだか照れくさくて、滑らかには言えなかったけれど。 初めて呼んだ、彼の名前。 声にすると、目の前の彼はぱあっと見惚れてしまうくらい綺麗に笑った。 いつものあの笑い方とは全然違う。 こんな風に、嬉しそうに笑ってくれるんだ。 そうすると、この名前の響きがとても愛しいもののように思えたの。 私に温かい気持ちをくれるこの人のことも、何よりも愛しいって。 そう、思えたのに。 「あいつとは上手くいってんのかよ」 精一杯目を逸らして、必死に耳を塞いできたのに。 この人はそれすらも許してくれない。 蒼い瞳に映る私は、宛ら蛇に睨まれた蛙のようだ。 「こっちが駄目ならあっちかよ。おとなしそうな顔して意外とやるじゃねえの」 「か、関係、ないでしょ」 「ああ関係ないね。お前が誰を俺様の代わりに立てようとな」 「……っ」 「あいつに抱かれて、俺に抱かれる夢でも見たのかよ」 目の奥が急激に熱を持っていく。 我を忘れて高く掲げた右手、その手を目の前の憎くて憎くて仕方のない男の頬を目掛けて振り下ろした。 けれど掌に伝わるはずの衝撃は、瞬間手首を掴まれて阻止された。 「跡部。ええ加減にせえや」 こんな場面、絶対に見られたくなかったのに。 どうしてこの人は、いつも私を守ろうとしてくれるの。 どうして私が傷付いていると、すぐに助けてくれるの。 「俺の大事な彼女、これ以上苛めんといて」 目の前の冷たい激情とは違う、穏やかな声で諭すように言う。 そんな彼に興が削がれたとでも言うように皮肉気に口元を歪めて跡部は私たちの脇を通り過ぎていった。 私は振り上げたままの腕を下ろすことも出来ず、ただ馬鹿みたいに震えることしか出来なかった。 「大丈夫や、俺がおるから」 そっと掴んだままの腕を下ろすと、あの時と同じようにその手で優しく頭を撫ぜてくれる。 「忍足……」 「……違うやろ」 ふっと笑った顔は、ああ、またあの顔。 私、この人のこと哀しませてばかりだ。 何よりも愛しいって。 私のことを守ってくれるこの人のこと、本当は傷つきやすいこの人のこと、私も守ってあげなきゃって、そう思ったのに。 腰を抱かれて温かい唇が優しく触れて来ても、思い出すのは冷たく這い回る、あの人の感触ばかりなの。 071115 |