「あ、亜久津だぁ」


屋上へと続く入り口のほうから聞こえて来た明るい声に、フェンスに背を預けていた亜久津は煙草をくわえたまま舌打ちをした。










Smoke Gets In My Eyes










「ね、今舌打ちしたでしょ。ちゃんと聞こえたんだからね」


横目でこちらを一瞥するだけの亜久津の愛想のない態度も気にすることなく、彼女───
亜久津の横へと歩み寄ると、彼の足元にしゃがみこんだ。
膝を抱えながら亜久津の方を見上げたは、真っ青な空に浮かぶ太陽の光に思わず目を細めた。
亜久津はそんな彼女には相変わらず見向きもせず、くわえていた煙草を口元から離すと、その口から白い煙を吐き出した。


「今日も元気にサボリですかぁ?」
「……」
「いいお天気だもんね。教室の閉じこもって授業なんて、やってられないよね」
「……」
「ねえ、なんか言ってよー」
「……」
「おーい。あっくーん」
「……うるせえ。気持ちの悪い呼び方するんじゃねえ」
「ふふ。やっと反応してくれた」


嬉しそうに静かな笑い声を上げたに、亜久津はまたひとつ舌打ちをすると、再び煙草をくわえた。


「また煙草吸ってる」
「関係ねえだろ」
「いけないんだよ。煙草は二十歳からなんだよ」
「うるせえ。俺に指図するんじゃねえ」
「うるさくありません。煙草は体に悪いんだよ。病気になっちゃうんだよ。身長だって伸びなくなっちゃうんだよ」


そこまで言ってから、はじっと亜久津のつま先から頭へと視線を送った。


「……亜久津、身長いくつ?」
「184だ」
「……はは、もう十分大きいね」


亜久津の言葉には照れたように笑うと、突然思い出したかのように黙りこんでしまった。
自分の膝をぎゅっと抱え込み、次の言葉を言うべきか否か、頭の中で反芻する。


広い屋上に流れる気まずい沈黙の雰囲気にも亜久津は興味なさそうに煙を吸い上げながら、自分の吐き出す煙が青い空に浮かぶ雲のように流れていく様子を眺めていた。


「……清純」


しばらくしてが呟いた名前に、煙草を持つ亜久津の手がわずかに揺れた。


「清純もさ、吸ってるんでしょ。時々」
「……知ってんのか」
「まあ、一応ね」


呟くようなの言葉に、亜久津は初めて彼女のほうを見下ろした。
先ほどまで亜久津の方を見上げていた彼女は、膝を抱えてじっと自分のつま先を眺めていた。
忙しなく動いていた唇をきゅっとかみ締めるようなの表情に、亜久津は手にした煙草の灰が落ちるのにも気づかず、ただ彼女の横顔を見つめていた。


「私の前じゃ、絶対吸わないけどね。やっぱり煙草吸うと、持久力とか減っちゃうって言うし。仮にもスポーツ選手なのにさ……。それに、もしバレちゃったら、大変なことになるんじゃないのかな。出場停止とか……。あ、でも亜久津も好き勝手やってたし。大丈夫なのかなぁ……」
「……」
「あっごめん。別に嫌味とかじゃなくって」
「けっ」


自分の言葉を訂正しようと慌てて顔を上げたと目が合い、亜久津は視線を横へと逸らした。
手にしていた煙草が残りわずかになっていることに気づき吸殻をアスファルトの床に落とすと、革靴で地面に擦り付けた。


「あっ煙草吸うのは200歩譲って許すとしても、ポイ捨ては絶対ダメだってば!」
「ちっ……いちいちうるせえ女だな」


亜久津は渋々身を屈めると捨てたばかりの吸殻を拾い、胸元のポケットから取り出した煙草入れに放り込み、そのままの隣に、少し距離を置いて座り込んだ。


そうしてまた、ふたりは無言のまま肩を並べていた。
ふたりの間を冷たい風が吹き抜ける。
は長い髪が顔に掛かるのも気にせず、じっと前を見つめていた。


彼女の頭の中は、の心は、あいつのことでいっぱいなんだろう。
亜久津の頭に浮かんで来た能天気な顔が、今自分の隣に居る少女にこんな顔をさせているのかと思うと、言いようのない苛立ちが生まれてくる。
その苛立ちの正体にとうの昔に気がついている亜久津は、その思いを頭から取り払うかのように新しい煙草を取り出した。
横から聞こえるライターをいじる音に、は再び顔を亜久津の方へと向けた。


「ねえ、煙草っておいしいの?」
「別に」
「じゃあさ、なんで亜久津は煙草吸ってるの?」
「知るかよ」
「なんかさ、大人への反抗の象徴、みたいな?」
「てめえ……いい加減に殴るぞ」
「だって。分からないんだもん」
「……くだらねえ奴らとつるんでるくらいなら、ひとりで居る方がマシだ。ひとりでいても、することなんてねえ。気がついたら吸うようになってたんだよ」
「……」
「……なんだ」
「いや、亜久津がちゃんと答えてくれるなんて思わなかったから……」
「てめえで聞いた来たんだろうが」
「そうだね。ありがとう。そっか……」


それだけ言うと、はまた黙り込んでしまった。
亜久津の思わぬ返答には驚いていたが、亜久津自身、自分の言葉に驚いていた。
他人に自分のことを探られるのを最も嫌う自分だったはずなのに、彼女の言葉には素直に答えてしまう。
もっとも亜久津にしては、だが。


「じゃあさ、清純は、なんで煙草吸うのかなあ……」


また出てきたその名前に。
自分がどれだけ彼女に答えようと、彼女が自分に応えてくれることはないという事実を突きつけられたようだった。
それで感傷的になるほど繊細な男でもないが、やはりおもしろくない。
もうその名を彼女の口から聞きたくないという亜久津の思いとは裏腹に、は言葉を続けた。


「私いつも、清純の隣にいるのに。ずっと清純と一緒にいるのに。それじゃ、ダメなのかな。ひとりでいたいって、思うのかなあ」
「……アイツだってヘラヘラしてるようで、色々あんだろ」
「うん。知ってるよ。清純いつも私やみんなの前では笑ってばっかりで、ふざけてばっかりだけど。本当はテニスとか、色んなことでガチガチになってるんだって。表に出さないけど。表に出さないから、見えないところでどんどん溜まっていっちゃうんだって。でもさ、私は、清純の色んなところ見たいって……嫌なところも、辛いところも、ちゃんと見せて欲しいって。そういうところも含めて、ちゃんと清純のことを受け止めたいって、思ってるのに。ダメなのかな、私じゃ……」


いつも煩わしほどに亜久津に絡んでくるその声がどんどん掠れていく。
亜久津は相変わらずゆうゆうと構えて煙草を吸い続けていたが、内心では必死に彼女に掛ける言葉を捜していた。
彼女を慰めたいわけでも、あの男のフォローをしたいわけでもない。
あいつのことなんてどうでもいい。
ただ目の前にいる彼女が他の男を思いながら明るい顔を曇らせていくのが、我慢ならなかった。


「くだらねえ」
「え……」
「男なんて、くだらねえもんなんだよ。他人の前ではかっこつけていたい。そのために、吐き出す場所が必要なんだよ。いらねえもんを捨てる場所と、大事なもんを仕舞う場所は違うだろうが」
「……でも、私は清純のこと、全部見ていてあげたいよ。いらないところなんて、そんな……」
「好きな女の前でくらい、いい格好させてやれ。お前はあいつのそういうところを分かってさえいればいいんだよ。全部吐き出したあいつが戻ってこれる場所を作っておいてやればいいんだよ」
「でも……」
「……うだうだ言うんじゃねえ。あいつがどこで何していようが、あいつの居場所はお前にあるんじゃねえのか。お前のことが好きだから、お前のために笑ってるんだろうが」
「あ……」


彼がいつも笑っているのは、誰のためなのか。
自分の胸に巣食った不安な気持ちに捕らわれるあまり、大切な恋人の、自分への思いやりを忘れてしまっていた。
亜久津の言葉に、は心に掛かっていた靄がだんだんと晴れていくような気持ちになっていった。


「そっか……そうなんだ。じゃあ、私は、いつも清純が笑って私の隣にいられるように待っていればいいんだね。待つだけって、なんか辛いけど……。でも、私がちゃんと清純のこと考えて、受け止めてあげようとすば……それはもう、待ってるだけじゃないんだよね。それでも、清純が抑えきれなくなったときは……私が、ちゃんと支えてあげればいいんだよね」
「それでいいんじゃねえの」


ひとつひとつの言葉をかみ締め、決意するかのように語るの言葉に、亜久津はつまらなそうに返事をした。
煙草はまだ随分な長さが残っていたが、それを地面に押し付けると先ほどのように、ポケットから取り出したケースの中へと落とした。


!やっと見つけたよ」
「えっあれ、清純?」


突如入り口から聞こえて来た声に、亜久津はまたか、と言う風に舌打ちをして顔を上げた。
そこにあったのは、鬱陶しいくらいに見慣れた、元チームメイトの顔。


のクラス行ったら、授業出てないって言われたからさ。必死に探したんだよ」
「えっもう授業終わちゃったの?あっくん、チャイム鳴ったの気づいた?」
「……てめえ」
「あ、うそうそ、亜久津。ごめんってば」


じろりと睨みつけた亜久津に、は悪びれる様子もなく笑顔で返した。
その表情からは先ほどまでの沈んだ様子は微塵も感じられず、吹っ切れたようだ。
そんなふたりのやりとりに、千石が拗ねたような声を上げる。


「なになに、ふたりして」
「ふふ。ちょっと、亜久津と浮気してたんだ」
「ええっそんな。……亜久津、に手出したりしたら、亜久津だからって許さないよ」


彼女の言葉にふざけた様に返した千石だったが、その眼は挑発とも警告とも思える光を湛えて亜久津を見下ろしていた。


「フン。勝手にしろ」


亜久津はその眼を睨み返す気にもなれず、腰を上げると立ち上がり、ふたりに背を向けてその場を立ち去って行った。


「亜久津!ありがとうね!」


背中に掛けられるの弾んだ声にも、亜久津は歩みを止めることなく扉の奥へと消えて行ってしまった。


あいつのために悩み、あいつのために泣く
そんな彼女が自分の言葉で笑顔を取り戻してくれるのなら、こんなつまらない役割も悪くない。
柄にもなくそんな風に考えている自分に、亜久津はひとり自嘲するように笑った。


「この俺も、あの野郎と同じようにくだらねえってわけか」


太陽の光に慣れた眼がわずかに眩むのを感じながら、亜久津はだるそうに薄暗い階段を下りて行った。















070302