柔らかそうな髪の毛。影を作る長い睫。白い首筋。骨張ったしなやかな指。


眼に映る貴方の全てが、私の意識を支配する。


けれど、私の知っている貴方の姿は、右斜め後ろから観察可能な範囲だけ。










視界範囲










窓際から二列目、最後尾。


席替えのくじ引きでその席を引き当てた時は「やった!これで授業中に読書も内職も昼寝もし放題だ」
なんて心の中で小躍りしたものだ。
けれどその席についても、私がその特権を行使することはなかった。
跡部景吾。
彼の姿が私の席の左斜め前の席に在るから。


授業中。休み時間。暇さえあれば、私は彼の姿を見つめている。


別に彼に恋愛感情を抱いているわけではない。
彼は学園でその名を知らない人はいない程の有名人で、確かに他の男の子たちに感じているのとは
少し違う思いを抱いてはいるけれど。
それはあくまでも「憧憬」とか「羨望」とか、そんな類の感情。
同じクラスになって半年以上経つけれど、一度も会話をしたことは無いし、
彼の顔を正面からじっくりと見たことすら無い。
彼の周りにはいつも男女問わず人が溢れていて。
常に高貴で華やかなオーラを身に纏っている。
とても私なんかが近寄れるような相手ではない。
ただ、余りにも整い過ぎた彼の容姿に。
同級生とは思えない程に優雅で、けれど何気ないその仕草に。
視線を送らずにはいられなかったんだ。


だから、授業中にひっそりと彼の姿を見つめるだけで私は十分。
その時間だけ、手の届かない遠い世界にいる貴方を、私だけが独占している気持ちになれる。
私だけの特権。


お昼を終えた直後の4時間目。
ただでさえ睡魔と闘わなければいけない時間だというのに、
壇上では初老の教師がほとんど聞き取れないような声で呪文のような公式を唱えている。
という訳で教室内の生徒の半数近くがその闘いを放棄し、机の上に突っ伏している。
かく言う私も、この時間ばかりは襲ってくる衝動に屈しかけながらも、
頬杖をついて、いつものように左斜め前方を半分閉じかかった瞳でボーっと眺めていた。
そこに存在する人物は、周囲の人間が次々と脱落していくにも関わらず欠伸のひとつもすることなく、さらさらとシャーペンを走らせていた。
但し、机の上に広げられているのは授業のノートではなく、部活の練習メニューか何かのようだけれど。


「相変わらず綺麗だなぁ」


そんな風に思いながら、ふあ、と口を手で覆うこともせずに欠伸をすると。


ふいにくるっと振り返った彼と、眼が合った。


あまりにも突然の出来事に、私は阿呆みたいに口を開けたまま固まってしまった。


彼は私の眼を見つめたまま口の端を持ち上げて、その涼しい眼元を僅かに細めると、
ゆっくりと視線を外して前へと向き直した。


それはたった数秒の出来事だった筈だけれど。


私にはその瞬間、私と彼以外の空間の全てが止まっているような錯覚に陥り、
そしてそれがすごく長い時のように感じていた。


それからしばらくしても私は身動きすることが出来なかった。
前の席の子に「ちょっと、受け取ってよ」と非難の声を掛けられてやっと意識を取り戻し、
前方からプリントが回っていることに気づいた。


いつも、視線を送るのは私だけ。
私と彼の関係を表すのは、片方に向いた、たったひとつの矢印。
それが、今初めて、彼の眼に私が映ったのだ。
しかも、よりにもよって、大口開けているところを目撃されてしまった!!


跡部くん、笑ってたな・・・・・・
いや、笑われた、と言うほうが正しい。


恥ずかしさと驚きで、それからはその時間も、次の5時間目も、私は俯くことしか出来なかった。
丸々1時間以上も彼を見つめなかったことなんて、久しぶりだ。


ホームルームも終わり、早く教室から立ち去りたいと帰り支度をしていると、頭上から声を掛けられた。





上を見上げると、そこには、毎日私が見つめていた顔。
その眼が、今は私を上からじっと見つめている。



「あ・・・・・・とべ君・・・・・・」


やっとのことでそれだけ言うと、私はさっきのようにまた固まってしまった。
彼の眼には、見るものを石に代えるメデューサの力でも宿っているのだろうか?
彼はそんな私の様子を見てか、口の端を片側だけふっと上げる。


「お前いっつも俺のこと見てるよな。何か用でもあんのかよ」


笑いを含んだその言葉に、もとから固まっていた私はさらに凍りつき、冷や汗まで流れてきた。
ま、まさか気づかれていたなんて・・・・・・!


「え、えっと・・・・・・それは・・・・・・」
「なんだ。言いたいことがあるならはっきり言え」


彼は私の机に腕をついて身を乗り出し、さも可笑しい、といった風に顔を歪めて、
しどろもどろになって答える私の顔を覗き込んだ。


ち、近い・・・・・・!


自分の密かな行為を本人に見つかってしまった、と言う焦りと羞恥心。
そして、初めてはっきりと自分に向けられている彼の意識と、近すぎる距離に。
私はすっかり畏縮してしまって、頭が上手に回らなくなってしまって。


「ごめんなさい!あ、跡部くんがあんまり綺麗なものだから、思わず見惚れちゃって・・・・・・。
き、気持ち悪いよね。もうしません!本当にごめんなさい!」


気がつくと、大声で恥ずかしい自白をしていた。
教室中から向けられる好奇の視線とざわめき。
ああ、もう死にたい・・・・・・。
真っ赤なのか、真っ青なのか、どうなっているのか分からない自分の顔を伏せると、
上から笑い声が降ってきた。


「そんなに見たいなら、見せてやるよ」


予想外の言葉に、え、と顔を上げると。


両頬をそっと掴まれ、鼻の先がぶつかりそうな程の至近距離に在る、彼の整った顔。
深く透き通った碧い瞳に射竦められて、私の思考は完全に停止していた。


そして、間もなく唇に訪れた、柔らかい感触。


一斉に教室中からどよめきと、悲鳴のような声があがったけれど。
私の耳に入るのは、たったひとつの声だけ。


「いつでも見せてやるよ、お前だけに。もっと近くでな」


そう言って笑うと、彼はまた顔を近づけて来た。


けれど、私の頭の中も目の前も、もう真っ白で。
何も見えなかった。


いつも見つめていたその顔が、こんなにも近くに在るのに。










061014