「ううっ寒っ」
「だから言ったじゃないか。この時期の海はまだ寒いって」


ローファーが砂浜に埋もれていくのも気にせずに歩きながら後ろを振り返ると、ゆっくりと私の後をついて来る幸村くんはいつものように穏やかな目で私を見つめてくれていた。


「だって、最後に幸村くんと一緒に海、見たかったんだもん」


胸の中で抱えたままの卒業証書を握る手に力を込めながら目の前の幸村くんの顔を見上げて拗ねたように言ってみるけれど、幸村くんは相変わらず黙って笑ったままだ。
私はなんだか面白くなくて、前を向き直してまた歩き始めた。
自分の歩みが砂浜に跡を残していく様子を眺めながらくしゅんとひとつくしゃみをするとと、後ろからふわりと暖かい感触に包み込まれた。


「仕方ないな、は」


背後から私を抱きしめてくれた幸村くんのコートの中に閉じ込められて、その温もりを感じたままじっと目の前に広がる静かな海を眺めていた。
後ろの幸村くんも、私と同じ海を見ているのかな。
いつも、幸村くんと一緒に同じものを見て同じ時間を過して来た。
けれど4月からは、お互いに別の道を歩かなければならない。
それは私も幸村くんも、自分自身で決めた進路だから後悔なんてないはずなのに。
もうこうして、一緒にひとつのものを見つめる穏やかな時間もなくなってしまうのかと思うと……。


「幸村くん」
「なんだい?」
「ずっと、幸村くんとこうしていたいよ」
「こうして?」
「うん。ずっとずっと、このままだったらいいのに」
「俺は、そうは思わないけどな」


返ってきたのは私が求めていたのとは全く逆の言葉。
ショックのあまり私の視界を曇らせていた涙も一気に引いてしまい、すぐ後ろにいる幸村くんを振り返ると幸村くんはさっきまでと変わらない優しい笑顔を浮かべたままだった。
そんな落ち着いた様子の幸村くんを見て、訪れた別れに感傷的になっているのは自分だけなんだという失望と悲しみが募って来て、一度止まった涙は今度は留まることなく私の頬を濡らしていった。


「どうして、そんなこと言うの。幸村くんは、私と離れちゃっても……平気なの」


零れる涙を必死に拭いながらしゃくりあげていると、幸村くんが手首を掴んで宥めるように私の手のひらを撫でてくれた。
そうしてそのまま私の手を両手で包み込んで、暖かい唇でその涙を掬うように口付けた。


「ごめんね。泣かないで」


背を屈めて下から私の顔を覗き込む幸村くんはいつものように笑いかけてくれるけれど、幸村くんの真意が読めない私は不安なままで、何も答えることが出来なかった。
ただ涙の跡を撫でるように吹き抜けていく潮風のくすぐったい感触だけが、私の胸のざわめきを鎮めてくれていた。


が最後だなんて言うから、少し拗ねていたんだ」
「え……」
「卒業して進路が別々になってしまうからって俺達の関係が終わってしまうわけじゃないだろう。それともは俺とはこれで最後にしたいの?」
「そんな、そんなわけないよ!」
「そうだね。ありがとう」


大きく首を振りながら否定した私を見て、幸村くんはにっこりと微笑んだ。


と離れてしまうのは俺だって悲しいよ。けれどずっと同じ場所に立ち止まっていることは出来ない。俺達は流れに乗って真っ直ぐ、進んで行かなければいけないんだ」


私を諭すようにゆっくりと言う幸村くんの言葉に、黙って耳を傾けていた。
確かに幸村くんの言うことは正しいけれど、でも、理屈じゃなくて、どうしようもなくたって、堪えられないものだってあるんだよ。
頭では分かっているのに幸村くんの言葉を受け入れることが出来なくて俯いていると、幸村くんは握ったままの私の手を引いて私を自分の胸の中へと収めてしまった。
勢いあまって幸村くんの胸に頬を押し付けてしまった私が恐る恐る顔を上げると、すっぽりと私を包み込む幸村くんは海のように深い真っ直ぐな瞳で私を見つめていた。


「俺達はまだまだこれからだろう。これから成長して、お互いに新しい世界を広げていくんだ。そんな風に変わっていくを俺はいちばん近くで見ていられるんだ。それってすごく贅沢で幸せなことなんじゃないかな」
「いちばん、近くで?」
「そう。過す環境は変わってしまっても、俺達が繋がっていることには変わりはないよ。もちろんも、俺のことをいちばん近くで見ていてくれるんだろう?」
「幸村くんは、これからも私と一緒にいてくれるの?」
「当たり前だろ。俺はこれから先も、ずっとずっとと一緒にいるよ。離れる気なんてこれっぽっちもないからね」


不安に揺れる私の眼を真っ直ぐと見つめ返してくる幸村くんの瞳に、私は恥ずかしくって逃げ出したい気持ちになったんだけれど、その眼を逸らすことなんて出来なくって。
幸村くんみたいな強い気持ちをストレートに伝えることが出来なくて、誤魔化すようにおどけてみたんだけれど。


「なんか、プロポーズみたい」
「俺はそのつもりだよ」
「えっ」
「はは、冗談だよ」
「なんだ、冗談なの……」


軽く発した言葉を思いがけず肯定されてすごく驚いたけれど、否定されたらされたでやっぱりちょっと悲しくて。
幸村くんにいいように踊らされているみたい。
なんだか馬鹿みたいだなって思いながらまた俯くと、今度は額に幸村くんの柔らかい唇の感触が降りて来た。


「うん。ちゃんとしたのは、俺が立派な大人になって、をちゃんと守っていける自信がついてからね。その時まで待っていてくれるよね」
「……幸村くんが、いじわるしなかったらね」
「どうしようかな。はかわいいから」


そう言ってまた笑った幸村くんの笑顔は、私だちが出会った春からずっと変わっていなくて。
きっとこれから先もずっとずっと変わらないんだろうなって思ったら、さっきまでうじう悩んでいた自分が本当に馬鹿みたいで笑えて来ちゃった。


幸村くんが優しい瞳の中で私をいちばん大きく映してくれているんだって思うだけで、潮風が吹きぬけるように私の弱い心は消え去って、春の海のように穏やかな波を私の心に運んでくれるんだ。


幸村くんの言った「その時」が来るまで……ううん、その後だって、ずっとずっと幸村くんは私のことだけを見ていてくれるんだって、信じちゃうんだからね。










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