真田幸村は最近妻を娶った。
名をといい、小さな大名家の娘だ。
先の戦で真田に敗れ和議の証として嫁がされた、謂わば人質であった。



疾うに夜も更け寝静まり返った城内で、は床につくことなく闇夜に白く浮かぶ月を眺めていた。
それはまるで月に焦がれる御伽噺の姫君の如き姿、ともすれば天からの使者に連れ去られて行ってしまいそうに危うげな儚さを湛えていた。

数刻して訪れることのない待ち人に諦めたようにひとつ息を吐くと、襖をぴたりと閉じ自室へと戻って行った。
そんな彼女を見つめる瞳がふたつ、漆黒の闇に紛れ込んでいるとは露にも思わず。




城内にはひとつの噂がまことしやかに流れていた。


「幸村様は奥方様の寝室を訪ねようとしない」


その噂自体は偽りのない事実なのだが、そこから派生した憶測はどれも低俗で下世話なものばかり、とりわけを貶めるものばかりであった。
先方からの強い意向で嫁いできたを真田の側室には不相応との声もあり、万人の祝福を受けた婚姻ではなかったのだ。


「旦那、様のことだけどさ」


真田の家臣である猿飛佐助が声を掛けると、幸村はまたその話しか、とでも言いたげな辟易した顔をした。
城内の老人たちからも口煩く聞かされているのだろう。


「此度の婚姻は殿にとっては望まぬ縁談だったであろう。ひとり郷里を離れた心中察して余りあるものがある。殿には時を掛けこの地に馴染んで頂き、互いの理解を深めていきたい。其は殿を大切にしたいのだ」


成程、潔癖で頑固な主らしい考えだ。
なんと優しく情愛に満ち、そしてなんと愚かなのだろう。

武家に嫁いだ女の為すべきこととはひとつだ。
それを為さぬことはその存在意義を失うこと。
彼女の存在を城内に於いて異質たらしめているのは他ならぬ幸村自身なのだ。

また、幸村は知らない。
彼女が誰を待ち焦がれ、眠れぬ夜を過ごしているのかを。

そしてそれを主に告げぬ己も、なんと愚かなことか。




今宵も闇の中に彼女を見つめる双眼が浮かぶ。
連日の任務となっているそれを佐助に命じたのも他ならぬ幸村だった。


「城内には殿を快く思わぬ者も多い故、万一ということもある。夜を徹しての彼女の護衛を頼む」


―全く、純粋すぎるってのも罪だよ、旦那。


この日も常に変わらず、暫し月を眺めた後には静かに部屋へと戻った。
ただひとつだけ違っていたのは、彼女の黒い瞳を揺らす雫が一粒。
月の光を受けながら、白い頬を滑り落ちていったということである。

そのたったひとつの淡い煌めきが、影に忍んで生きる男に衝動を生じさせた。


床に就いたの枕元に小さな足音をひとつ立てて彼女の襖に侵入した。
誉れ高き真田忍隊の長である自分には暗闇の中で気配を消すことなど容易い。
だが、敢えてそうしなかった。


「……誰か、いるのですか」

訪れるはずのなかった訪問者の気配に、が声を上げた。
その名を問うたところで、この場を訪れる権利と義務を持っている人間など唯ひとりしかいない筈だった。


漆黒の闇の中で、必死に目を凝らそうとする彼女の傍らに膝を付き、濡れた瞳に口付ければ、暗く冷たい存在である自分にはそぐわぬ柔らかい温かさに眩暈が生じる。
その頬が震えるのは畏怖からか、それとも歓喜からか、自分には関係のないこと。
どちらであろうと、その感情を彼女に与えているのは自分ではないのだから。
半身を起こした彼女を再び布団に沈めそれを己の闇で覆い尽くす。


「ゆき、むら、さま」


目前にいるであろう人物を見極めようと暗闇を彷徨うの瞳が、佐助を映すことはない。
このまま己が闇に溶け込んでしまえば、彼女は幸せな夢を見て眠ることが出来るのであろう。


だが。


彼女を連れ去るのは、俺がいい。


の耳に唇を寄せて低く囁いた。


「ごめんね」


息を呑んだ彼女の漆黒の瞳に映る自分の姿に、嗤いを禁じ得ない。



闇を厭い自ら光の前に姿を曝した。
嗚呼、俺は忍失格だね。




















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