先輩、まだ残ってたんすか?」



練習は大分前に終了して解散になっている。

ひとり部室に残ってぼんやりしていたら突然後ろから声を掛けられて、思わず肩を震わせてしまった。



「あ……なんだ。切原くん」



切原くんは扉を後ろ手で閉めると、室内に入って来た。



「なんだって言い方ないじゃないすか。俺じゃあ不満ですか」
「あはは。そんなことないよ」



切原くんとは学年が違うこともあって、他のみんなと一緒にいる時に話すことはあっても
こうやって二人きりになるのはほぼ初めてだ。


だから彼の顔を見た時、ちょっと少し緊張したんだけれど。
いつもの様に人懐っこい笑顔を浮かべながらわざと拗ねたような口ぶりをする切原くんに、
私の顔も綻んでいった。


切原くんは私の座る、部屋の中央に位置する長机の方へ歩いてくる。
私はもうとっくに書き終えている部誌を閉じて、机の上の道具を片付けようとした。



「あの人ならよかったっすか」



明るくふざけた様に言い放つ切原くんの言葉に、私の手の動きは止まり、笑顔は一瞬にして固まった。



「あ、あの人って……?」



精一杯笑いながら応えたけれど、声は震えていた。
切原くんにも絶対気づかれているだろう。


けれど私の頭の中は、どうして分かったんだろう。
いつから知っていたのだろう。
他のみんなも知っているのだろうか。
そんな考えで溢れていた。


でも私は、そのことを認めることは出来ない。
認めるわけにはいかなかった。


目の前の相手に完全にバレていることは分かっているのに
それでも誤魔化さなければいけないというのは、我ながら滑稽な話だ。


そんな私の思考を知ってか知らずか、切原くんは私の引き攣った笑顔とは対照的に
本当に楽しそうな笑顔を浮かべていて、机を挟んだ私の目の前の椅子を引いて腰を下ろした。




何がそんなに楽しいんだろう。




「しっかし、先輩も可哀相な人ですよね」
「な……なにが……」



私の顔は、きっともう笑えてすらいないだろう。
震える手で意味もなく握り締めた部誌の両端には皺が出来ている。



「あの人、先輩のことなんて全然眼中にない、て感じですもんね」
「……なんで、そんなこと」



わざわざ言うの、と最後まで言うことすら出来なかった。


もう私は顔を上げることすら出来なくて、俯きながら消え入りそうな声を出した。
そんなこと、言われなくたってずっと前から分かっている。


意地悪を言う切原くんの真意を計りかねて、
後輩の前で惨めな姿を晒す自分を呪い、本当に消えてしまいたい気分になった。


すると突然視界の端に切原くんが伸ばした手が映り
そのままその手に髪の毛を掴まれて無理矢理正面を向かされた。



「痛っ……っ」
先輩ってさ、俺らといるときはいっつも張り付いたような作り笑いしてるけど。
あの人のことが絡むと、傷ついたような、哀しいような顔するんですよね。むかつくんですよ」



切原くんは相変わらず笑っているけれど、
さっきまでのいつもみんなの前で見せるような、人懐っこい笑顔ではない。


すごく違和感のある笑顔。


けれど、私は切原くんのこの顔を知っている。
もう何度も見たことがある。


但し、この顔を真正面から向けられるのは初めてだ。
それはいつも、コートの上で対峙する相手に向けられていたから。


私の耳の奥では、もうずっと警告音が煩く鳴り響いている。


けれど、私は彼の瞳から逃れることが出来ない。
頭を掴まれて顔を背けることはできないし、視線を逸らす気にもなれなかった。
私を見つめる彼が、今どんな表情を浮かべているのか。
それを確認出来ないことは、なんだかとても怖いことのように思えた。


切原くんの明るい顔と軽い口調。
そしてそれに反して私の髪を掴む容赦のない手の力に私の意識は支配されて、
彼の言葉を理解するところまで頭が回らない。


私は言葉を発することが出来ず、ただ彼の眼を見つめることしか出来ない。




視界がぼやけてきたのなんて、気のせいに決まっている。




「俺にも、いつものヘラヘラした顔じゃなくて、その顔。向けて欲しいんです」



切原くんは私の眼から視線を一瞬も逸らすことなく、満足そうに口の端を上げた。
その眼は、コート上に倒れる相手を見下ろす時の眼と、全く同じだった。





「もっと俺のこと考えて、傷ついてくださいよ」





私の眼の前に、赤い世界が広がっていく。



















061012