― 気に入らない女がいる。



という女子は、跡部景吾にとって学園の中に於いておよそ予測することのない態度を彼に対して取る、唯一の人物だった。
跡部は自分自身の特性も、それが他人にとってどれだけ効果的なのかも、十分に承知していた。
それは恋慕、憧憬、あるいは嫌悪、畏怖。
そこに潜むものは様々であったが、その全てに共通するものは、それらの感情は全て隠すことなく、跡部本人へ向けられているということだ。
そして跡部はそれらの感情の全てを心地よく受け入れていた。
常にトップであり続けなければならない彼にとって、例えそこに含まれる感情は様々ではあろうが、その背に視線を一身に集めることは当然のことだ。
もとより彼は人の注目を浴びることが嫌いではないという特殊な人種であることも、多分に含まれるが。
とにかく跡部は自分が他人の視線を集めるのは当然のことであるし、そうでなければならないと思っていた。

だが、だけは違う。

とはクラスの異なる跡部が彼女の教室を度々訪れるのは、彼女と同じクラスにテニス部レギュラー部員が在籍しているからだ。
彼が教室に踏み入れる度、学園一の有名人の来訪にその場に居合わせる者のほとんどが、男女問わずざわめいた声を上げる。
毎度の事に彼の部活仲間はうんざりしたような表情を浮かべるが、跡部は当然のことと気にも留めない。
そんな浮き足立った教室の中で、の存在に跡部が気がついたのはいつだったか。

彼女の親友と思わしき少女が、跡部に対し熱の篭った視線を浮かべながらはしゃいでいる様子を横目に感じていたが、その相手をするは興味無さ気といった様子で、跡部の方を決して見ようとはしていなかった。
簡単な用事のために何度か跡部の方からに話し掛けたこともあったが、それに対してもとにかくそっけない。
彼に声を掛けられた少女は、大体は頬を染めて恥らうなり、緊張した面持ちで顔を強張らせるなり、とにかく跡部の満足のいく反応を返すものだが、は表情ひとつ変えることはない。
一言二言必要最小限の言葉を彼に返せば、用件はそれでお仕舞いとあっさりと立ち去ってしまう。
では、とは誰に対してもそんな不遜な態度をとる少女なのかと言えば、そうでもないらしい。
にとってはクラスメイトである、例の跡部の部活仲間と彼女はそれなりに仲が良いらしく、跡部が訪れた教室でそれは親密な様子で交流する二人の姿を何度も見かけた。
跡部に対しては決して見せることのない屈託の無い笑顔を浮かべるに、何か腹立たしさを覚えて彼女を見つめていると、その不躾な視線に気が付いたらしい。
は会話の相手になにか告げると席を立ち、跡部の前から立ち去ってしまった。

― 気に入らねえ。

注目を一身に受けるべきはずの自分に、ただ一つ、向けられることのない瞳。
常に人より優位に立つことを信条としている彼にとって、思惑通りに行かない存在がよりにもよって彼にとっては最も容易いはずの同学年の少女であるという事実がまた納得いかず、跡部はに対し、他人には抱いたことのない苛立ちを覚えていた。




学園の生徒会長も兼任している跡部にとって、何かと理由をつけて生徒を呼び出すことは容易なことだった。
放課後、いつものように彼専用の生徒会室で執務に就いていると、控えめに扉を叩く音がした。
予想よりも早い。いつも自分に付き従っている従順な後輩を今日は先に帰らせておいて正解だった。
そんな風に独りごちながら、扉の向こうにいる人物に中に入るよう、促す言葉を掛けた。
中を伺うように扉から顔を除かせたのは、跡部を唯一惑わせる原因である人物。

「・・・・・・委員会の書類に不備があるって、先生から聞いたのだけど」

その声は、跡部がよく耳にするどこか演じたような愛らしい少女の声ではなく、不機嫌さすら感じさせる無機質な声色だった。
中に入るよう促したにも関わらず、跡部ひとりきりの室内に入るのを躊躇っているのか、は戸口から動こうとしない。
そんな彼女に対し、跡部は逸る気持ちを抑えわざと手元の書類から視線を外さずに声を掛けた。

「悪いが今手を離せない。そこで待っていてくれ」

戸口の向かいの壁に沿った会長席に腰を掛けた跡部は、その手前、部屋の中央に備えられた革張りのソファを顎で示して見せた。
それでも暫くははそこから動かずに何やら逡巡しているようだったが、まるで自分などいないかのようになにやら仕事にとりかかる跡部に埒があかないとあきらめ、大人しく室内に入って来た。
わざとなのか無意識なのか、扉は半開きのままだ。
ソファに腰を下ろしてもそわそわと落ち着かない様子のを尻目に、跡部はまだ動かない。
ふたりきりになるには広すぎる生徒会室に、跡部が背にする壁に掛けられた時計の針の音だけがやけに大きく響く。

数分の後、跡部は手にしていたシャープペンシルを机上に降ろすとわざとらしく息をつき、会長席の引き出しから一枚の書類を取り出すとようやく席から立ち上がった。
跡部がこちらに近づいているのは気づいているはずなのに、は彼女の膝の上に行儀良く乗せた掌から視線を動かさない。

「ここ、一項目記入漏れがある」

彼女が腰を下ろすソファと対になるように設けられた背の低いテーブルに書類を落とし、該当の欄を指して見せた。

「今ここで書いていってくれ」

告げると、いかにもここから早く立ち去りたい様子のの顔は落胆した色を見せたが、文句を言うでもなく小さく「わかりました」と跡部が手渡したシャープペンシルを大人しく受け取った。
指示された書類への記入を始めた彼女の横を通り過ぎると、徐に跡部は半開きになったままの扉を音を立てて閉めた。
その音に驚いたが顔を上げると、さらに追い討ちといった風に、扉の鍵を後ろ手でわざとらしく音を立てながら施錠して見せた。
瞬間困惑したようなの視線と、表情を変えない跡部の視線が交差するが、すぐには目線を手元に戻し、急いでペンを滑らせていく。
早く用件を済ませて、ここに居る理由をなくすつもりなのだろう。

だが、周到に用意した罠に彼女を誘い込んだ跡部が、そんなことを許すはずがない。

もとより、彼女を呼び出すためにこじつけた口実だ。
大して時間の掛かるはずもない作業を終え慌ててソファから立ち上がろうとするのすぐ真横に跡部が腰を下ろすと、ピタリとその忙しない動きが止まった。



彼女の耳元で意図して穏やかな声を掛けるが、ぜんまいの切れた人形のように固まってしまったからは反応がない。

「お前が俺のことをどう思っているか、聞かせてくれないか」

大抵の女子ならば一瞬で虜になってしまいそうな低く甘い声で問いかけると、跡部よりも遥かに小さいの体が大きく震えた。
頑なに跡部の方を向こうとしないだが、それに反して至近距離にいる跡部のことを過分に意識しているのは明白で、今までにはあり得なかった彼女の態度に気を良くした跡部の中で、に対する嗜虐心のような気持ちが芽生えてきた。
跡部の視線から逃れようと身を縮込ませるの横顔はまるで狙い済まされ怯えた兎のようで、そんな彼女を追い詰める獣の立場である跡部は思わず舌なめずりでもしそうになるのを堪えるほどだった。
今なら彼女は、どんな瞳で自分を見つめ返すのだろうか。
じりじりと沸いて出た願望を抑えられずに彼女の頬に触れこちらを向かせようとしたが、瞬間彼女にその手を振り払われてしまった。

「あ・・・・・・」

跡部の予期せぬ行動と、それに対して反射的に取ってしまった自分自身の行動に驚いて言葉を失くすの顔をこちらに向かせることには成功したが、対する跡部の方も驚きを隠せなかった。
自分に対する無関心な態度。
たったそれだけのことでも彼にとっては耐え難い屈辱なのに、この上、目の前の無力そうなこの少女にここまで拒絶されるとは。

― お前はどうやっても、俺を見ようとはしないのか。

跡部の脳の奥を焦がす感情が沸いてきた。

― 気に入らねえ。

跡部の中で燻っていたへの苛立ちがはっきりとした怒りに変わり、これまで抱いたことのない激しい感情に突き動かされた跡部は、の両肩を押さえつけソファに押し倒してしまった。

「そんなに俺のことが嫌いか」

ソファに沈む彼女の体に跨って見下ろすと、その視線から逃れるようにまた顔を背けられてしまう。

「そうかよ・・・・・・。そんなに、顔を見るのも嫌ってわけか」

今、自分を襲う感情が怒りなのか絶望なのかも判別のつかなくなった跡部は、掠れた声で呟くと剥き出しのの首筋に顔を埋めた。


こんなつもりじゃなかった。
ただ、彼女の態度の理由が知りたいだけだった。
そうすれば、何故自分がそこまで彼女のことを気に入らないのか―
何故自分がこれ程に彼女のことを気にしてしまうのか、予感めいた自分の感情に確信が持てると思ったのだ。

だが、今の跡部からはそんな淡い願望はすっかり消えてしまっていた。
今、彼の脳内を支配するのは身を焦がす欲望のみ。


これまでほんの十数年の人生しか歩んでいない跡部だが、それでも色恋の経験の数はお世辞にも控えめとは言えない。
だが、それは俗に言うところの「女グセが悪い」などという下世話な表現とも若干違っていた。
彼は求められるからそれに応えるだけだし、それだって手当たり次第という訳では決してなかった。
また、その相手に接する時だって、彼女たちへの出来る限りの配慮を忘れたことはなかった。
人からの注目を厭わない跡部にとって、自分に向けられる好意はむしろ歓迎するべきものだったし、いくら彼が『跡部景吾』という他からは逸脱した存在であるとは言っても、年頃の男子らしい情欲は当然持ち合わせている。
だが、彼が『跡部景吾』であるが故、一方通行の好意を受け入れることはあっても、彼からそれらと同じものを与え返すことは、彼の目指す道にとっては足枷でしかなかった。
だから跡部は誰とも必要以上に深い仲になろうとは思わなかったが、自分を一時だけ満たしてくれる可愛らしい少女たちには、その対価として彼女たちにも一時の幸せを与えることを流儀としていた。
彼の元を訪れ、そして去って行った者たちは同じ数だけいたが、彼への好意的な感情をさらに高めることはあっても、その純粋な想いをあらぬ方へ歪ませてしまったり、ましてや彼を恨んだりするような者はひとりもいなかった。

だが、はそんな跡部の事情を知る由もなかった。
実のところ、は跡部が彼女の存在を認識するずっと前から、他の大多数の少女たちと同様に彼女もまた、跡部への仄かな想いを抱いてた。
が他の少女たちと違っていたのは、そんな想いを抱きながらも跡部と恋仲になることを決して望んではいなかったという点においてだ。
跡部の周りには男女問わず多くの人間が集い、その中でも選ばれたたった一人だけが、彼の隣を独占することが出来る。
だが、その権利を手にした者がその場に長く居続けることが出来たことを、は見たことがない。
それは当の本人たちにとっては了解済みの、疑問の生じる余地のない関係だったのだが、遠くから想いを募らせる事しか出来ない純情なには到底計り知れるものではなかった。

自分が、彼を取り巻く大勢の中から選ばれることなんて絶対にあり得ない。
たとえ万が一、なにかの奇跡でそんなことが起こったとしても、すぐに飽きられ捨てられてしまうのがオチだろう。
そんなこと、耐えられるはずがない。

そうして、は跡部への恋心を封印することに決めた。
どうせ傷つくのなら、最初からこんな想い忘れてしまった方がいい。
の跡部に対する徹底した態度は、彼を諦めるための彼女の精一杯の虚勢だった。

不幸にもそのの健気な努力は予想以上に効果的で、跡部の方もそんなの想いを知る由がなかった。


いつもは仲間達と穏やかな放課後を過ごす生徒会室は、やけに響く時計の針の音とソファを包む皮が軋む音、それに混じって搾り出されるようなか細い悲鳴によって異常に張り詰めた空気と交じり合う汗の匂いで満ちていた。

今、跡部がに対して及んでいる行為は、常の彼からは大きく逸したものだった。
相手に敬意を払う思いやりなどどこにもなく、目の前の相手を顧みずただ自分の欲望を押し付けるだけの、一方的で無慈悲な行為。
そして、自分の下でされるがままになっている哀れな少女を見て覚える快楽の大きさも、今までの比ではなかった。

は跡部の一挙一動、全てに跡部の思うように反応する。
泣きながら苦痛と悲痛に満ちた声で、息も絶え絶えに呼ばれる自分の名前。
今まで頑なに跡部に対し無関心を貫いてきたが、跡部を感じ、跡部の名を呼び、跡部のなすがままにされている。
この事実に、跡部は今まで得てきた物理的な喜びとは違う、ぞくぞくとした感じたことのない悦びを感じていた。
跡部が初めて覚えた劣情が、を追い詰め攻め立てていった。


長い長い拘束からやっと解放されたは、涙も枯れ果てたという風に茫然としていた。
そんなの姿に残された僅かな罪悪感を覚えた跡部は自分の軽率な行為に舌打ちをしたくなったが、今更しても仕方のない後悔をするよりも跡部には考えなければならないことがある。
自分の感情の答えに強引な手段で辿り着いた跡部は、無理矢理この胸の中に収めたこの少女を手放す気など微塵もなかった。
だがこのままでは、卑劣な行為に及んだ跡部のことをが此れまで以上に避けようとするのは明白だ。
やっとに自分という存在を突きつけてやったというのに、これが最初で最後だなんて許すことが出来るはずがない。

― どうしてやろう。

を捕らえる為に張り巡らせる次の罠は、どうすればよいか。
そう思案していると、先ほどとは打って変わって痛々しい沈黙に満ちた生徒会室に唐突な電子音が鳴り響いた。

どうやら、の携帯電話の呼び出し音らしい。
その音を気にするようにの背中は震えるが、当然だがこの場で出るつもりはないらしい。
いつまでも止まないこの場にそぐわない音に、跡部は今度は本当に舌打ちをすると、跡部自身がから奪い床に捨て置いたスカートのポケットから、その音の発信源を取り出した。
跡部の手の中でなお自分を呼び続ける携帯電話には怯えて顔を上げたが、動けずにただ跡部の次の行動を見守るしかなかった。
携帯電話のディスプレイには、いつか跡部へのミーハーめいた言葉を無邪気に口にしていた、の親友の名が表示されていた。

このまま通話ボタンを押し、電話の先の相手に自分との関係を知らしめてやるのも良いと思った。
そうすれば恐らく明日の朝には、跡部とのことは学園中に広まるだろう。
だが、そうしてしまえば今度こそ、が跡部のことを認めることは終ぞなくなるだろう。
そうこうしているうちに、いつまで経っても応えない持ち主に痺れを切らしたように、耳障りな呼び出し音はようやく鳴り止んだ。
跡部は少しの落胆と安堵を覚えると、携帯電話をソファに添えた机の上に投げ捨てた。
見るとの方も僅かながら安心したような顔色を見せた。

― もっと良いことを思いついた。

あることに思い至り、ふと、先程までディスプレイに表示されていた少女の名前を口にしてみた。
一度撫で下ろしたの肩が、また大きく揺れるのを目に収め、跡部は自分の思い付きが彼女にとって確実に有効なものであることを確信した。

「次は、あいつでもいいな」

死刑宣告のように告げると、憔悴しきったの顔からさらに血の気が失せた。

「それとも、またお前が相手してくれるってのか」

今にも倒れこみそうなを抱きとめたくなる衝動を抑え、さらに卑劣な言葉を紡ぐ。

「どうする、

頬に添えた手は、今度は振り払われることはなかった。
の揺れる瞳に映る自分の姿は我ながら酷い極悪人の顔で笑えてくる。
こんな男の顔、見たくもないってのも当然かもな。
だがな、。また俺から逃げようだなんて、絶対に許さねえ。
お前に忘れられるくらいなら、最低な男だと一生憎まれる方がマシだ。

重い沈黙の中、時計の秒針の音だけが絶望した彼女を追い詰めるように再び生徒会室に響く。
どれだけの間、そうしていたか。
意を決したの震える唇がその答えを紡ぐのを見て、跡部は冷酷に口角を吊り上げた。




















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