自分の抱いている感情が幼い恋だなんてことは、十分自覚しているつもりだった。 自分とは遠くかけ離れた存在である人を暢気に好きだと想い続けるなんて、我ながらバカみたいだなって。 けどこの気持ちは確かに本物で、ずっと変わることはないって。 そう思っていた。 「隣ええ?」 委員会の集まりで少し早く席についていた私に声を掛けてきたのは、同級生の忍足くんだった。 彼を見て私が少しどきりとしたのは、忍足くんが私の片想いの相手と同じテニス部に所属していたからだ。 無言で頷いた私を認めてから、彼は隣の席の椅子を引いて腰掛けた。 「あれ?自分……」 横に座った忍足くんが私の顔をじいっと見ているのを感じて、でも私はそちらを見ることも出来なくて、嫌な緊張感を抱きながら机の上に投げ出した自分の掌を見つめいてた。 「よくうちの練習見に来とるよな?」 緊張はピークに達して、重ね合わせた掌はじっとりと湿ってさえ来ているようだ。 お願い、これ以上言わないで。 心の中でそう願っていたのだけれど、彼はあっさりとその願いを打ち砕いてしまった。 「誰か好きなヤツでもいるん?」 ああ、もうこれであの人を見に行くことも叶わなくなる。 私のたったひとつの、小さな幸せだったのにな。 そんな軽い絶望を感じていた私に向けられたのは、今度は予想もしなかった言葉で。 「もしかして、俺のファン?」 「違……っ」 咄嗟に顔を上げた先にあった笑顔に、反論の声を詰まらせてしまった。 その顔はまるでしたりといったような顔で。 「嘘嘘。俺の方見ててくれたらええのになーって思うとっただけ」 そんな風に軽く言う忍足くんの言葉を、真に受けたわけではないんだけれど。 「俺はH組の忍足侑士。よろしくな、さん」 どういうわけか、それ以来忍足くんとはよく話すようになっていた。 「さん、こっちこっち」 いつもはお母さんのお弁当を教室や、どこか適当な場所でクラスメイトと一緒に食べているのだけれど。 今日に限ってお母さんの寝坊でお弁当はなし、いつも一緒の友人たちも風邪で休みだったり部活の集まりだったり。 たまにはいいかな、なんてひとりで訪れたカフェテリアは予想以上に賑わっていた。 ずっしりとしたトレーを手にして、満席のテーブルに途方に暮れた私の名前を呼んだのは、忍足くんの声だった。 その声のした方を見遣った私は、思わずぎょっとしてしまった。 広いカフェテラスの真ん中を陣取っているのは忍足くん他テニス部レギュラーの面々で、周りの視線を集めていることこの上ない。 そんな場に、彼の姿がないはずもなく・・・派手な集団の中で、その姿は一際異彩を放っていた。 「さん、こっち空いとるで」 もう一度声を掛けてくれた忍足くんの呼びかけを無視するわけにもいかず。 「お、お邪魔します……」 何故か都合よくひとつだけ空いていた席に、大人しく収まってしまった。 「なんだ?忍足、と仲良かったのか」 同じクラスの宍戸くんとか。 「宍戸さんと同じクラスなんですね」 後輩なのに気を使ってくれる鳳くんとか。 「あー!俺そっちのランチにすりゃよかったぜ」 気さくな向日くんとか。 「いつも見かけへんと思とったけど、さんは弁当派やったんや」 忍足くんはもちろん。 「俺ひとり暮らしやから、手作り弁当とか憧れるわ」 「だったら俺が作って来てやろうか、きゃはは」 「岳人はなんでも納豆入れるからあかん」 「なんだよ、納豆上手いじゃんかよ」 「あんな腐ったもん、人の食うもんやないで」 「お前……全世界の納豆好きと水戸市民を敵に回したぞ」 「納豆おいしいのにね」 「さんまで・・・まじでか」 「へっへー侑士ざまーみろ」 「さすがにお弁当に納豆はないけどね……」 思いのほか会話も弾んで、心地良い緊張感と共に楽しいお昼休みが過ごすことが出来たのだけれど。 「せっかくお膳立てしたったのに、全然喋ってへんかったやん」 あの後、忍足くんに言われてしまった。 ていうかやっぱり気づいてたんだ・・・。 もう今更だから前のように動揺はしないけれど、本当、油断のならない人だなぁ。 「だって、緊張しちゃうんだもん」 「そんなん言うとったら、いつまで経っても仲良うなれへんで?」 「い、いいの。見てるだけで、満足なんだから」 「ふうん」 「あ、でも、ありがとう。あんな風に一緒にお昼食べたり出来るなんて思わなかったから、すごく嬉しかった。ありがとう」 「ま、さんがええんやったら良かったわ」 「うん。でも、意外だったな」 「なにがや」 「忍足くんって、案外お節介焼きなんだね」 「……そんなん、自分やなかったらせえへんわ」 遠くで見つめるだけで満足だった憧れの人に、ほんの少しだけ近付けた。 ただ大勢の中で同席しただけで、まともに会話だって出来なかったのに。 たったそれだけで浮かれていた私は、忍足くんの言葉にも気に留めていなくて。 本当に、身勝手で視野の狭い子供だったんだ。 広いコートに張り巡らされたフェンスを取り囲む、大勢のギャラリー。 私もちゃっかりと、その集団に紛れ込んでいた。 もう日課となってしまっている、テニス部の見学。 特に今日は部内の練習試合が行われるとあって、コートの中も外もいつも以上の熱気に包まれていた。 その歓声を一身に浴びる彼がコートの中央で華麗な技を繰り広げる度に、周囲はさらなる歓声とため息で埋め尽くされていく。 もちろん私も例に洩れず、そんな彼の一挙一動を見逃すまいと、必死にその姿を追いかけていた。 あ。 ふと視界の端に入り込んだ、黒い髪。 次に試合を控えているのだろう、忍足くんがウォーミングアップを始めたところだった。 制服だと気づかなかったけれど、細身の割に結構がっしりとしているんだ。 いつもの柔らかい表情とは違う、忍足くんはびっくりするくらい真剣な目をしていた。 そういえば、忍足くんがテニスしている所ってちゃんと見たことがなかったかも。 氷帝の天才って呼ばれてるっていうのは聞いたことがあるけれど、どんなテニスするのかな。 「ねえねえ!」 「うん?」 「今のスマッシュすごかったね!!」 「え、嘘っ見てなかった」 「ええー何やってんの。どこ見てたのよ」 どこって、そりゃ……本当、私どこ見てるんだろう……。 「さん」 練習試合も終わって、ギャラリーも疎らになった頃。 忍足くんが私の方へと寄って来てくれた。 「やっぱ来とったんやな」 「うん。お疲れ様」 「俺の試合もちゃんと見とってくれた?」 「あ、うん……見てたよ」 「ほんま?どうせあいつばっか見とったんちゃう?」 違うよ、とは言えなかった。 忍足くんの試合もちゃんと見てたよって、言ってあげられなかった。 なんだかそれは言ってはいけないような気がして。 私は笑って誤魔化すことしか出来なかった。 人気者の男子との仲を女子にやっかまれる、なんて、漫画の中の出来事で。 例え現実に起こったとしても、まさか自分がその当事者になるなんて思いもしなかった。 調理実習でカップケーキを作ったとき、先生が「気になる子にあげてもいいかもね」なんて余計なことを言うものだから、みんな一斉に色めき立ってしまった。 彼氏にあげる、と張り切っていた友人が「ももちろんあげるよね」なんて言うから、私も後には引けなくなってしまって。 のこのことひとりでテニスコートまで来てしまったのがいけなかったみたい。 手にしていた包み紙を見咎められて、女の子たちに囲まれてしまった。 みんな、私と同じようにいつも練習を見に来ている、見たことのある子たちだ。 「調子に乗って、目ざわりなのよ」 「あんたみたいな女が」 「挙句に忍足くんにまで取り入って」 突き飛ばされた勢いで尻もちをついた私は予期しなかった事態にただびっくりしていた。 手元に転がった包み紙が踏み潰された時も、黙って眺めているしか出来なくて。 「自分ら何しとるん」 だから背後から忍足くんの声がしたときも、あまりにも都合のいい展開に、ただただ呆気にとられていた。 「ひとりひとり名前聞かれとうなかったら、とっとと失せ」 聞いたこともないような冷たい声。 彼女たちが走り去って行くのを見送る彼の背中を、眩しく見上げていた。 「痛いとこあらへんか」 振り返ってしゃがみこんだ忍足くんの声は、いつもの静かな声に戻っていた。 「なんともないよ。ありがとう」 「ったく……ひどいことするなあ」 私に手を差し伸べながら、彼の視線は無残に潰れたケーキに向けられていた。 「いいよ。どうせ渡す勇気なんてなかったし」 その手を掴んだ私を起こしてくれた忍足くんは、徐に転がったケーキを拾い上げて、ビニールに包まれていたそれを開封するとひとつまみ。 摘まんでそれを口に運んでしまった。 「せっかく上手いのに、勿体ないなあ」 その瞬間、やっと自覚したんだ。 「今度は、ちゃんと忍足くんに作ってくるよ」 「ほんま?めっちゃ嬉しいわ」 レンズの奥の目を細めて言葉通り、心底嬉しそうに笑う彼に。 「忍足くんって、かっこいいんだね」 「今頃?気づくん遅いわ」 私の中の何かが変わる予感がした。 091009 140222 |