「失礼しまーす」 普段滅多にお世話になることのない、保健室の扉を開くと。 「あれ、さん」 そこには、私がいちばん大好きな人がいたんだ。 a tender day 保健室に入って来た私に声を掛けてくれたのは、同じクラスの幸村くん。 彼はベッドに横たわって、本を開いていた。 幸村くんはつい最近まで、難しい病気で入院していたから……そんな彼の姿を見て、私の心臓は嫌な音を立てて鳴り始めた。 「ゆ、幸村くん、どうしたの!?どこか具合が……」 慌ててベッドの傍まで駆け寄った私に対して、当の本人はそっと静かに微笑んだ。 「ああ、そう言うわけじゃないんだ。ひとり見学しているだけだなんて退屈だからね。保健室で休みながら、本でも読もうかなって思っただけなんだ」 「あ、そ、そうなんだ。よかった……」 彼の言葉に思わず安堵のため息をついた私に、幸村くんはクスクスと笑い掛けて来て。 「心配してくれたのかな。ありがとう」 「あ、うん……」 ひとり動揺していた自分が恥ずかしくなって、顔を赤くして俯いてしまった。 幸村くんに駆け寄って行くなんて、普段の私じゃ絶対しない……出来ないことだし。 でも、やっと元気になって、帰って来てくれた幸村くんがまた……なんて考えてしまったら……。 居ても立っても居られなくなっちゃたんだ。 「膝、血が出ているね。転んだのかい?」 幸村くんの言葉にふっと我に返ると、ここに来た目的を思い出した。 卒業式まで1ヶ月を切り、授業の全過程は既に修了した私たち3年生のために用意された、さまざまな行事。 卒業遠足、社会見学、百人一首大会……そして今日は、球技大会。 サッカーに出場することになった私は、相手のボールをカットしようとスライディングして負傷…… なんてわけでもなく、ボールも何も持たず、ただコートの中を走っていただけで、何もないところでコケてしまったのだ。 チームメイトたちにもすっかり呆れられちゃって……もう邪魔だから、保健室に行って来いとコートを追い出されてしまったというわけ。 ああ、情けない……。 「ふふ、さんはあんまり運動は得意そうじゃないからね」 そんな私を見透かしたかのように笑った幸村くんは、本を閉じるとベッドから立ち上がり、備品の並んでいる棚を探り始めた。 「幸村くん?」 「生憎、先生は席を外しているんだ。俺が手当てしてあげるから、ここに座って」 「え、ええっ」 救急箱を取り出した幸村くんは、パイプ椅子に腰掛けて。 もうひとつ、椅子を引いて自分の正面に置くと、そこを示して見せた。 「あ、そんな。自分で出来るから」 「遠慮しなくてもいいよ。それに、さんが自分で手当て出来るほど器用に見えないのは、俺の気のせいかな」 「う……」 相変わらず穏やかな笑みを浮かべている幸村くんのお言葉に、私は大人しく彼の正面に腰を下ろした。 「じゃあ、ちょっと失礼するよ」 そう言って、幸村くんは私の膝裏に手を入れると、そっと優しくその足を前に引いて、抱えるように。 消毒液をつけた脱脂綿で、私の鈍臭さの勲章を、まるで大切なものを扱うかのように……。 私の心臓は今まさに飛び跳ねそうで、顔は火が出そうなくらいに異常な熱を持っていく。 唯一幸いだったのは、私の膝に視線を落とした幸村くんに、そんな私の顔を見られなくて済むってこと。 幸村くんのウェーブの掛かった柔らかい髪が、彼の頬に掛かって。 伏せた目元には、男の子とは思えないほど長い睫毛が影を作っていて。 私よりも10センチ以上背の高い幸村くんを、見下ろすことなんて初めてで。 いつも見つめていた彼の初めて見る姿に、私の鼓動は早まるばかり。 あ、そう言えば今日は…… どうしよう、まさかこんな日に、こんな状況になるなんて……。 「大丈夫?沁みないかい」 幸村くんが顔を落としているのをいいことに、じっと彼の顔を見つめながら思考を巡らせていると、不意に顔を上げた幸村くんとバッチリ目が合ってしまった。 私は、とっさに顔ごと視線を逸らしてしまって。 「あ、う、うん。平気」 「そう。良かった」 そんな私を幸村くんは可笑しそうに笑うと、また視線を戻してしまった。 恥ずかしい……なんとか、この場を誤魔化したくて。 「幸村くん、手馴れてるって感じだね」 「そうだね。いつも部活なんかで慣れているからね」 「そうなんだ……。幸村くんも、部活中に怪我なんてするの?」 「いや、自分の怪我と言うよりは、他の部員の手当てをす方が多いかな。こんな風にね」 「え、あ、そ、そっか」 「うん。特に赤也なんか、生傷が絶えないからね」 「あ、2年生の子だよね。よくうちのクラスにも遊びに来る」 「そう。よく知ってるね」 だって、いつも見てるから。 幸村くんのこと……。 「あの子、元気でかわいいよね」 「そう?」 「うん。全然接点のない私にも、笑って挨拶してくれるよ。すごくいい子だよね」 「そうだね」 「この間廊下ですれ違ったときも、こんにちはって言ってくれたよ。なんか人懐っこいっていうか。あんな後輩がいて、羨ましいな」 「……そうだね」 赤也って言う子のこと、そんなによく知っていたわけじゃないけれど。 あの子の存在が、教室でもあんまり話す機会のない幸村くんとのわずかな接点のような風に感じちゃって。 嬉しくて、赤也くんとの数少ないエピソードを、幸村くんに話して聞かせたんだ。 けれどそんな必死な私に反して、なんだか幸村くんの口数はだんだんと少なくなって行くような気がして……。 それで私はもっと焦ってしまって、ぼんやりとした記憶を引きずり出しように話題を探していったの。 「あ、そう言えば赤也くんって」 「さんは赤也みたいな奴がタイプなのかい」 「え」 丁寧に傷の消毒をしてくれると、そこに絆創膏を一枚、貼ってくれて。 私を見上げて、じっと見つめる幸村くんの目。 そこには、いつもの穏やかで、静かで、優しい柔らかい光はなくて。 私の心臓を射抜くような、刺すような鋭い光。 幸村くんへの想いでいっぱいの、私の心を……。 「そ、そんなんじゃ」 「そう?赤也の話ばっかりしているから」 今まで聞いたこともないような、冷たい声。 私の知ってる、私の好きな、幸村くんじゃないみたい。 「ご、めんなさ……」 なんだか凄く恐くて。 怒ったような幸村くんのことが、じゃなくて。 幸村くんに嫌われてしまうんじゃないかって、ことが。 気がついたら目の奥がじんと、熱くなって来て……。 「ごめん……私、何も知らないのに、幸村くんの大切な後輩のこと……ぺらぺらと……ごめん、なさい……」 俯いて幸村くんが貼ってくれたばかりの絆創膏を見つめていると、突然体を引かれて。 あっと思ったときには、私の体は、強くて温かい……幸村くんの腕の中にあった。 何が起こったのかわからなかったんだけれど、幸村くんの手元にあった消毒液が床に落ちて、透明の液体が飛び散っていくのだけが目に映っていた。 「ゆき、むらくん?」 「ごめん」 「あ、あの」 「好きな女の子泣かせるなんて、最低だな」 「え……」 そう言うと、幸村くんは私を抱きしめる力を弱めて。 少し体を離すと、私の目元の雫をそっと指で拭ってくれた。 「後輩に嫉妬するなんて、情けないな」 「嫉妬……?」 「うん。……そう言う、わけなんだけれど」 「え、そう言うって……」 「はは、そうだね。ちゃんと全部言わなきゃ、卑怯だよね」 そう言って笑った幸村くんの顔……こんな顔も、するんだ。 「俺は、さんのこと……」 幸村くんがふと真剣な目をして。 私は緊張のあまり、気が遠くなりそうになるのを、必死に堪えて。 彼の言葉の続きを待って……あ、チャイム……。 「……」 「……」 保健室に漂う異様に緊張した雰囲気に突然水を差されて、私も幸村くんも黙り込んでしまった。 どうしよう、なんて思っていると、幸村くんがまた口を開き掛けて。 私はとっさに肩に力を入れて身構えたんだけれど。 「ああ、そろそろ閉会式が始まるんじゃないかな」 「え」 「もう戻った方がいいよ」 「あ、うん」 文字通り肩透かしを食らった私はよろよろと椅子から立ち上がって、幸村くんに「じゃあね」なんて言って、彼に背を向けた。 「さん」 保健室の扉を開けて、普段見慣れた廊下の様子に少し安心して部屋を出ようとすると、後ろから名前を呼ばれた。 振り返ると、椅子に座ったままの幸村くんが私の方を見て微笑んでいて。 「続きは、放課後にね」 彼の言葉の意味を解釈すると、私の顔はまた一気に赤くなっていく。 「お誕生日おめでとう!」 幸村くんの顔も見ずにそれだけ言うと、保健室を飛び出してしまった。 わけもわからないまま廊下を走り続けて、だんだんとスピードダウンして、のろのろと歩いて、そのうち足が止まってしまって。 立ち止まったとき、目に入った、膝に貼られた絆創膏。 そう言えば、手当てしてもらったお礼、言うの忘れていた。 ちゃんとありがとうって言わなくちゃ。 それで、その後は……。 ── 俺だって同じように、いつも君の事を見ていたのに。 君は全然気づいてくれないから、少し意地悪をしてしまったんだ。ごめんね。 けれど君はそんなことじゃ、俺の事を嫌いにはならないだろう? 放課後、君からのプレゼント。 楽しみにしているよ。 070305 HAPPY BIRTHDAY Seiichi!! |