「ジロー見なかったか」 日もすっかり短くなって、暗い影を落とし始めた放課後の教室。 突然掛けられた声に顔を上げれば、戸口に立っているのはジャージ姿の跡部くんだった。 「ちょっと前に来たけど……すぐ出て行っちゃったよ」 「そうか……ったく……」 私の返事を聞いた跡部くんは、その整った顔を不機嫌そうに歪めた。 大方、神出鬼没のジローくんが部活中に姿をくらませて、部長の跡部くんがその捜索に奔走中……といったところだろうか。 「で、お前はこんな時間まで何してるんだ」 もう用件は終わりと、ひとり思考を巡らせていたところに、さらに続けられた声。 どうやら跡部くんはまだ立ち去る気がないみたい。 「補習……だけど」 「なんだお前、バカだったのか」 「しっ失礼ね。ちょっと風邪で休んでただけだもん」 「ふうん」 聞いておきながら別段興味もなさそうな跡部くんはずかずかと教室に入ってくると、そのまま私の前の席に腰掛けてしまった。 違うクラスなのに堂々と長い脚を組んで、その態度は尊大そのものだ。 「……部活は」 「ほとんど引退したようなもんなんだ。勝手にやってるだろ。大体どうしてこの俺様が使い走りのようなことしなけりゃいけねえんだ……そこ違う」 「え?」 背もたれに肘をついてこちらに顔を向けた跡部くんが唐突にもう片方の手で私の手元のノートを指さして来た。 男の子なのに、指先までなんて綺麗なんだろうって、思わず見惚れてしまう。 「この場合のwhereは関係副詞だからinは必要ない。」 「あ、そっか……」 「それにこっちのlongは形容詞ではなくて切望する、という意味の動詞だ。副詞が付いてるだろうが。訳し直してみろ」 「あ、彼は彼女と結婚することを……成程、やっと意味が分かった」 跡部くんの指摘通りに、慌てて消しゴムとペンを滑らせていくと、歪だった文章がどんどん形を成していく。 さすが、学年トップ様。 「ありがとう。なんとかなりそう」 「ていうか、お前やっぱりバカだろ。こんなの基本中の基本だろうが」 せっかく素直にお礼を述べたというのに、頬杖をついた跡部くんは心底呆れたようにこちらを見下ろしている。 「仕方ないでしょ。苦手なんだし……いつも分厚い洋書ばっかり読んでる跡部くんと一緒にしないでよね」 「へえ。いつも俺のこと見てるわけね」 「え!?」 反論したつもりが思いもかけない言葉で切り返されて、手から滑り落ちたシャーペンが音を立てて転がって行った。 その音が、ふたりきりの静かな教室でやたら響いたような気がして、頭の中でカラカラと鳴り響く。 転がったシャーペンの行方を目で追いながら、必死に頭の中で言い訳を巡らせる。 「えっと、だって、跡部くん目立つから!嫌でも目に入るって言うか、その……」 「ふうん。俺はいつもお前のこと見てたけどな」 「え」 もう、跡部くんの言葉に驚いてばかりだ。 彼の言葉の意味に自分の期待するものを重ねてしまいそうで、思わず顔を上げた先には……なんだか、跡部くんの顔近くない……って、今、なにが起こった? 跡部くん、私になにしたの? 「あ、あの、跡部くん」 「……from my lips, by thine, my sin is purged」 今、私の唇に触れた、跡部くんの唇。 その唇から唐突に零れ落ちた英詩。 一瞬きょとんとしてしまったけれど。 なんだか聞いたことあるそのフレーズを思いだして、もう湯気が出るんじゃないかっていうくらい顔から耳まで真っ赤になって行くのが自分でも分かって。 「なんだ知ってるのか」 「え、映画で、見たから……」 「へえ」 そしたら跡部くん、いいこと思いついた、みたいなすっごい笑顔を浮かべて。 「だったら続きは?」 「え、あの」 「その罪を返して戴きましょう、私の唇に」 「あ、跡部く、」 こんなのずるい、私の言葉は全部、無理やり塞いじゃって。 掴まれてぐっと引き寄せられた腕も、大きくて少し冷たい掌が添えられた頬も、ふんわりと香る香水に酔いそうになる鼻先も、唇も……全部が跡部くんを感じるための器官になってしまったみたい。 跡部くんが近すぎて、自分が自分でなくなってしまいそう。 それに、映画では1回だけだったのに、こんな……ずるいよ跡部くん。 「……どうして」 「して欲しそうな顔してただろ」 「し、してないよ!」 「そうだな。間違えた。キスしたくなる顔だった」 既にこれ以上はないってくらい真っ赤な顔をしてるだろうに、さらに熱が上昇しいく。 もう私、死んじゃうんじゃないだろうか。 跡部くんに殺されちゃう。 けど当の跡部くんは、そんな私を見て可笑しそうに声を出さずに笑ったりなんかして、全然余裕で。 薄暗い教室の中、蛍光灯の白い灯りを浴びる跡部くんはやっぱりすごく綺麗で。 ……やっぱりずるい。 「……したくなったら、誰とでもするんだ」 悔しくて意地悪半分、でもちょっと悲しくて本音半分で言ってやった。 「バーカ。そんなもんするかよ、面倒くせえ」 「じゃあ、なんで」 「……お前、本当バカだな」 「バカバカって、そんなバカに、キ、キスしたのは、誰よ」 今度はだんだん腹が立って来て、睨みつけてみたんだけど。 「こんないい男、俺様以外にいるか」 やっぱり効果はないみたい。 「課題は教えてやったんだ。それくらい自分で考えろ」 「ちょっと、」 「当たったら、ご褒美くれてやるよ」 「……ハズれたら」 「ペナルティだな」 「……どっちにしろ、嫌な予感しかしないんだけれど」 「よく分かってるじゃねえの」 そっと撫でるように頭頂部に触れた大きな手の余韻を残したまま、跡部くんは振り返ることもなく教室から出て行ってしまった。 私はやけに優雅なその後ろ姿を見送ることしか出来なくて・・・まだ片付いていない課題を残して、与えられた難題すぎる課題にただただ途方に暮れていた。 091012 140222 |