フェンス越しに見つめる、彼の姿。
独特の構えから繰り広げられる彼のテニスは誰よりも強くかっこいい。
靡く髪に迸る汗は何よりも輝いて見える。

そんな風に、彼の姿を必死に目で追っていると、練習試合を終えた彼が振り返り
迷うことなくこちらに真っ直ぐと歩いて来た。

や、やばい……。








a grateful day








先輩」
「は、はい……」


フェンス越しに、こちらを睨んでくる彼氏……日吉くんの冷たい声に、恐る恐る返事をした。


「俺は教室で待っていて下さいと言いましたよね?いつも言っているのに、どうしてあなたは俺の言うことを聞いてくれないんですか」
「で、でも、日吉くんのテニスしてる姿見たいし……それに、今日は……」
「それなら教室からでも見えるでしょう。こんなところで突っ立ていて、風邪引いても知りませんよ」


日吉くんの言葉に、私は勢いよくぱっと顔を上げた。


「えっもしかして、心配してくれてたの!?」


びっくりして彼の目を見つめながら言うと、日吉くんはぷいっと顔を逸らしてしまった。


「委員会休まれでもしたら、俺にとばっちりが来ますからね」


そう言い放った彼の言葉に、私はまたしゅんと、顔を俯かせてしまった。


すると、後ろからふわっと暖かい感触が現れた。


「寒いんなら、これ巻いとき」


後ろを見上げると、忍足くんがダークグレーのマフラーを私の首にかけてくれていた。


「ありがとう忍足くん!暖かい」


首に巻かれたマフラーを握りながら忍足くんにお礼を言うと、忍足くんは眼鏡の奥の眼を
優しく細めてくれた。


「な、日吉。これで文句あらへんやろ」
「お願い日吉くん。おとなしく見てるから」


私と忍足くんの言葉にも、日吉くんは相変わらず険しい顔でこちらを睨んだままだ。
と言うか、私は日吉くんのそんな顔しか見たことがない。






日吉くんと同じ委員会になって一緒に仕事をするようになったのは、3年生になってから。
一つ下なのに、物怖じすることなく私や委員長にもはっきりと物事を言って来て。
部活や道場が忙しいにも関わらず、委員会の仕事も的確にこなしていて。
そんな強い意志を持った彼の姿に、私はどんどん惹かれていった。
やっとこの想いを告げて、付き合うようになったのはもう1ヶ月前のこと。
本当に、ずっとずっと日吉くんのことが大好きだったから、恋人同士になれて本当に嬉しくて。
OKの返事を貰えた時は、思わず彼の目の前で泣き出してしまったのだけれど。
どうやら、浮かれていたのは私だけだったみたい。
思い返せば、私が勇気を出して「付き合ってください」と言った時の彼の返事だって
「いいですよ」のたった一言だけだったし。
毎日一緒に帰ってはいるけれど手を繋いだことなんてないし、彼が私に笑いかけてくれたことすらない。
いつも私が彼を勝手に待っていて、いつも私だけがへらへらと笑っているだけだ。
何事にも動じない日吉くんのことが好きだったはずなのに
こうなると、本当に私のことを好きで付き合ってくれているのか……
不安で、怖くて、どうしようもなくなってきてしまう。






一人でそんなことを考え込んで暗い顔をしていると、横から忍足くんがポンポンと私の頭を
軽く叩いてきた。


「ほら、日吉がそんな怖い顔で睨むから、「さん落ち込んでまったやないか」


忍足くんの言葉に、私は慌てて顔を上げて首を振った。


「ううん!そんなんじゃないから。日吉くん、気にしないで」


そう言うと、日吉くんは何か言おうと口を開きかけた。
けれど、それは後ろからやって来た人物の言葉で遮られてしまった。


「なにやってるんだ、てめーら」


不機嫌な声を上げながら私たちのほうへ来たのは、跡部くん。


「こんなとこで油売ってるんじゃねーよ」
「少しくらいええやん。もう走り回ってクタクタやわ」


忍足くんとそんなやり取りをしていた跡部くんは私に気がつくとふっと口の端を上げて笑った。


「なんだ。また来てたのか」
「うん。でも、もう帰るから」


そう言いながら忍足くんが巻いてくれたマフラーを外すと忍足くんは「えっもう帰るんか?」
て声を上げた。


跡部くんも「なんだよ。もっといればいいだろーが」って言ってくれたけど、私は黙って首を振った。


「これ、ありがとうね」



忍足くんにマフラーを返すと、フェンスの向こうの日吉くんと向き合った。


日吉くんは、相変わらず黙ったまま私をじっと見つめている。


「日吉くんごめんね、邪魔して。今日は先に帰るね」


ぎこちなく笑うと、私は3人に手を振ってコートを後にした。






今日は、ふたりで一緒に過ごす初めてのイベントだったはずなのにな。
鞄の中で、渡せなかったものがカラカラと空しく揺れる音がした。
身体に吹きつける冷たい風までもが情けない私のことを責めているような気がしてきて、
目頭が熱くなってきてしまった。
道の真ん中で立ち止まって、目から流れ出てくるものを必死で抑えようとしていると。


先輩っ!」


後ろから掛けられたのは、今はいちばん聞きたくない声だった。
いつもは、その声が聞きたくて仕方がなかったのに。


恐る恐る振り返った私の顔を見て、日吉くんは珍しく驚いたような顔をしたので
私は慌てて目をこすった。


「ど、どうしたの?練習は?」


さっきまで練習中だった日吉くんは当然ジャージ姿のままで。
町並みの中でひとつだけ違和感のあるグレーのジャージは、やけに寒々しい。
よく見ると日吉くんは肩で息をするように体を揺らせていて。
運動部の彼がそんな風になるなんて、よっぽど急いで追い駆けてきてくれたのかなって、すごく驚いた。
しばらくお互い黙ったまま見つめ合っていると、日吉くんがゆっくりとこちらに歩み寄って来た。


先輩、今日が何の日か、覚えてないんですか?」


彼の言葉に私の心臓は高鳴った。
……忘れているはずがない。


「……日吉くんの、誕生日……」


日吉くんは、一歩、また一歩と、こちらに近づいて来る。


「まだ祝いの言葉も、プレゼントも、何も貰っていないんですけれど」


日吉くんは、相変わらずいつもの無表情のままだ。


「あ、ごめんね。ちゃんとあるんだよ」


急いで鞄の中からプレゼントを取り出そうとすると、その手を日吉くんに掴まれてしまった。


びっくりして顔を上げると、いつの間にか至近距離に日吉くんの顔があって、
私の心臓はどんどんうるさくなっていく。


「プレゼントは、後で貰うからいいです」
「え、後で……?」


日吉くんは私の言葉には答えず、そのまま私の手を引っ張るようにして歩き出してしまった。


「待って、どこ行くの?」
「学校に戻るに決まってるでしょう。まだ練習は終わってないんですから」
「で、でも、練習見てるのはダメなんでしょ……?」


日吉くんが何をしたいのか分からなくて。
私は初めて繋がれたふたつの手を見つめながら、先を歩く日吉くんの背中を見上げながら、
戸惑いの声を上げた。


すると日吉くんは立ち止まって、私の顔をじっと見つめた。
手は、ずっと繋がれたまま。


「マフラーなら、俺のを貸してあげます」
「え?」
「俺以外の人に、触らせないで下さい」
「……」
「俺だけに、笑いかけてくれればいいんです」


日吉くんはそれだけ言うと、ぷいっと顔を背けてしまった。
さっき、フェンス越しにしてみせたように。


彼のその仕草の意味がやっと分かった私は、
ただ顔を赤くしながら日吉くんの顔を見つめることしか出来なかった。


「分かりましたか?」


日吉くんが横を向いたまま不機嫌そうに聞いてきたので、私は小さく「はい……」とだけ答えた。


私の返事を聞くと、日吉くんはまた黙ったまま歩き出した。
今度は、私の歩調に合わせるように、ゆっくりと。


「日吉くん」
「なんですか」


私が名前を呼んでも、彼はずっと前を見つめたままだ。


「お誕生日おめでとう……」


そう言っても、やっぱり日吉くんはこちらを向いてくれないし、何も言ってくれない。


「生まれてきてくれて、ありがとう」


そう言うと、私の手を握る日吉くんの力がぎゅっと、強くなった気がした。










061205 HAPPY BIRTHDAY Wakashi!!